
DJ Whiz Kid
via. Tommy Boy
Whiz Kid(ウィズ・キッド)、出生名ハロルド・マクガイアは1961年10月21日ニューヨーク出身のDJ。1980年代初頭からトミー・ボーイ・レコードのアーティストとして活動し、1983年にソウル・ソニック・フォースのMC、G.L.O.B.E.と「プレイ・ザット・ビート・ミスターD.J.」をリリース。グランドマスター・フラッシュの流派を受け継ぐカッティングのスタイルに定評があり、惜しくも33歳という若さでこの世を去った、オールドスクール期のwhiz kid(若き鬼才)です。
グランドマスター・フラッシュより速い! ただひとりのDJ

via. @MCDebbieD
フィメール・ラップのレジェンド、MCデビー・ディーのインスタによると
私のマネージャーのサンドイッチが、パークジャムでのウィズ・キッドのプレイを聴いて、クールハークに紹介したの。その続きはご存知の通り!フラッシュの「弟子」的な、史上最速のひとり!
「サンドイッチ」とは1980年代初頭のクール・ハークの相方で、イベンターとしても活動していたDJ。ウィズ・キッドを「史上最速」と絶賛するデビー・ディーの指摘の通り、当時(1980年 – 83年頃)のパーティ・フライヤーを見ると「インクレディブル(驚くべき)DJ」と紹介され、彗星の如く登場。クール・ハーク&サンドイッチ主催のパーティーに積極的に出演していきます。

「パーティー・ピープルたち、インクレディブルDJ、ウィズキッドに会おう!」
クール・ハーク主催のパーティ・ジャムのフライヤー(1981年10月12日)
via. CUL

クールハーク・クルーとしてT・コネクションの年末(1980年12月27日)パーティに参加。コールドクラッシュ、ファンタスティックと共演しています。
via. CUL

「グランドマスター・フラッシュより速い唯一のDJ、グランド・ウィズ・マスター!」と紹介。ボールルーム「サンズ・オブ・イタリー」でのパーティ(1980年10月24日)グランド・ウィザード・セオドアやグランドマスター・キャズらと共演。
via. CUL
クール・ハークやファンキー4との共演ですぐに頭角を現し、T・コネクションなどクラブイベントでベストDJに輝きます。さらに1981年トミーボーイ・レコード主催のDJコンテストで優勝。「ニューヨークで最速のDJ」の座を手にします。

「ウィズ・キッド、(クラブ)T・コネクションで行われたDJコンテストの優勝者」
クール・ハーク&サンドイッチ主催のパーティー・フライヤー(1981年3月6日)
via. CUL

会場は「ネグリル」(1982年1月21日)。フライヤーはフェーズ2がデザイン。ダンスバトル(ロック・ステディvsフロア・マスター)とマイケル・ホルマンのビデオショーというファブ5らしい演出です。
via. CUL
さらにウィズ・キッドは、パンク系、ニューウェイブ系の客層の「ネグリル」のパーティに登場。バンバータ率いるズールー・ネイションでの活動が、ファースト・シングルへの布石となっていきます。
北西部ヒップホップのゴッドファーザー

Play That Beat Mr. D.J. – G.L.O.B.E. & Whiz Kid (1983)
via. Discogs
歴史的に広く知られてはいないものの、(ワシントン州)タコマ市を拠点に活動し、全米に大きな影響を与えたアーティストがいました。
(KCMU-FMのラジオ番組「ラップ・アタック」のホスト)グレン・ボイドは、「シアトルの多くのオールドスクールDJやMCにとって、タコマのDJ、ウィズ・キッド(ハロルド・マクガイア)は、これからもずっと、北西部ヒップホップのゴッドファーザーである」と指摘しています。
太平洋岸北西部のヒップホップ黎明期を記録した歴史書「Emerald Street: A History of Hip Hop in Seattle」より。
ニューヨーク出身のマクガイアは1983年から1984年にかけて、軍に勤務していた妻がタコマへの派遣命令を受けたのを機に、およそ1年半の間この地に移り住んでいました。
さらに同時期、当時苦戦していたトミーボーイ・レコードから「プレイ・ザット・ビート・ミスターD.J.」をリリース。この曲はダンスチャートにランクインし、前代未聞の大ヒットを記録。最終的に25万枚を売り上げ、「プレイ・ザット・ビート」は初期のヒップホップ・クラシックとなりました。
関連記事:「プレイ・ザット・ビート・ミスターDJ」:MCグローブ & ウィズ・キッド(1983年)
「ウィズは地元の有名人になった」とグレン・ボイドは語ります。「そして、タコマは少しの間、北西部ヒップホップの紛れもない中心地になった」と述べています。
関連記事:DJウィズ・キッド、北西部ヒップホップのゴッドファーザー
カッティングが型破りでドープ

via. Ego Trip
ウィズ・キッドがやっていた「カッティング」のスタイルは型破りで、あんなヤバいことを、どうやってやってるのか、誰もが疑問に思っていた。
ヒップホップ・メディア「Ego Trip」によるディスクガイド「Ego Trip’s Book of Rap Lists」において、ズールー・ネイションのレジェンドDJ、レッド・アラートは、ウィズ・キッドのカッティングを「型破り(unorthodox)で超ドープ」と評しています。
他のヤツと比べて、彼のカットのやり方には、本当に耳を傾ける必要があったんだ。
彼はちょっとしたリズム感を出していた。ベーシックなベース・プレイヤーから始まって、続いてラリー・グラハムみたいのが登場。さらにプラスアルファで、「おおっ! これはヤバいサウンドだ。マジでドープ」みたいになる。まさにウィズキッドがそれだった。
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ディスコグラフィ「シングル」

Play That Beat Mr. D.J. – G.L.O.B.E. & Whiz Kid (1983)
via. Discogs
- Play That Beat Mr. D.J. – G.L.O.B.E. & Whiz Kid [Tommy Boy] 1983年
- He’s Got The Beat – Whiz Kid [Tommy Boy] 1985年
- Chilly Reds / Sweet Beat – Chilly Reds / Whiz Kid [Tommy Boy] 1986年
- Cut It Up Whiz / Kick The Bass – Whiz Kid With YSL [Nastymix Records] 1989年
- Let’s Get It On! – Whiz Kid With YSL [Nastymix Records] 1990年
ウィズ・キッドに関する記事

DJ Whiz Kid (1984)
via. MoPOP
「プレイ・ザット・ビート・ミスターDJ」:MCグローブ & ウィズ・キッド(1983年)
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