
via. The Guardian
何かが起こるとは思ってた、騒ぎを起こすということも。でもこんなに大きくなるとは思わなかった。
「ザ・メッセージ」の歌詞は映画のようなもので、社会にメッセージを投げかけてみたのさ。
How we made: Jiggs Chase and Ed Fletcher on The Message : The Guardian
イギリスのニュースメディア「The Guardian」より、不朽の名作「ザ・メッセージ」誕生の瞬間を、シュガーヒル・レコードのジグス・チェイス、そしてエド・フレッチャーが語っています。
ジグス・チェイスは、シュガーヒルのアレンジャー兼プロデューサーであり、「ザ・メッセージ」ではプロデューサー、作曲者としてクレジット。
エド・フレッチャーは、デューク・ブーティの名前で知られるシュガーヒル・バンドのパーカッショニストで「ザ・メッセージ」の作者。作詞作曲、編曲、演奏に加え、ラッパーとしても参加しています。
ジグス・チェイス(共同プロデューサー)インタビュー

Producer: Jiggs Chase & E. Fletcher, Sylvia Inc.
via. Discogs
ある夜、俺は(ラッパーの)エド・フレッチャーの家に泊まっていた。
俺はエドに「歌詞が必要だ」と言った。
エドはソファーに寝そべって、ジョイント(マリファナ)を吸っていた。片足を椅子の端からぶらんとさせながら、こう言ったのさ。
「押すなよ(追い詰めないでくれ)/ぎりぎりのところにいるんだから/正気を失わないようにしているのさ」
* “Don’t push me, ‘cos I’m close to the edge, I’m trying not to lose my head.”
「まじかよ! ヤバっ!」俺は叫んだ。
曲のフックが生まれた瞬間だと、俺たちにはわかった。
(グランドマスター・フラッシュが所属していたレーベル、シュガーヒルの代表)シルヴィア・ロビンソンは「ザ・メッセージ」について、ある考えがあった。社会で起きていることをシリアスに曲で表現したいが、うまくまとまらずにいた。
そこで、俺たちが持っていた曲のアイデアをシルヴィアに提案。「これはヒットするぞ」と付け加えた。
あとは曲を考えて、歌詞を書くだけだった。

Grandmaster Flash & The Furious Five / The Message (UK 1982)
via. 45worlds
一部を除いてエドがすべてを作詞、残りをメリー・メルが書いた。
バンドのメンバーはレコードにクレジットされたが、グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイブの中で、実際に曲に関わった唯一のメンバーがメリー・メルだ。
メルはグループで最も優れたラッパーだったが、エドはメルにラップを教えることになった。
すると「あなたもラップをやるのよ!」とシルヴィアに言われ、エドは、ラップ・パートも担当することになった。
何かが起こるとは思ってた、騒ぎを起こすということも。でもこんなに大きくなるとは思わなかった。
エドが語ったのは、世の中で何が起きているのかについてだ。
それまでラップは自画自賛するための音楽だったが、エドはそれを別の方向に持っていった。
彼は賭けに出たのさ、そして常識を破った。「メッセージ」によって、ヒップホップがまともに受け止めてもらえるようになったんだ。
当時ラップグループはたくさん存在したが、レコード契約するやつはいなかった。
さらに「メッセージ」は、ヒップホップが白人のオーディエンスを獲得するのにも一役買った。ヨーロッパでは黒人よりも白人の観客の方が多かったんだ。
曲がチャート上位にランクインすると、振り込まれる金額も増えていった。みんなが使い続けてくれるからね。
映画「ハッピー・フィート」で使われたし、P・ディディもアイス・キューブも「ザ・メッセージ」を使った。
俺は今も「ザ・メッセージ」の使用料を受け取っているんだ。

Puff Daddy and Mase – Can’t Nobody Hold Me Down (1996)
via. Discogs

Ice Cube Featuring Das EFX – Check Yo Self (1993)
via. Discogs
エド・フレッチャー(aka デューク・ブーティ、共作者/MC)インタビュー

Feat.: Melle Mel & Duke Bootee
via. Discogs
(この曲の歌詞は)俺が住んでいた地域で俺が見たものだ。当時ニュージャージー州のエリザベスは、時として無法地帯(jungle)のようだった。
いい場所だったが、俺はリビングルームに座って、通りの向こう側の公園で起こっていることを見ていた。
「ザ・メッセージ」の歌詞は映画のようなもので、社会にメッセージを投げかけてみたのさ。
当時のラッパーたちは10代後半で、曲の主流は、ハッピーでアップビートなパーティー・ソングだった。
だから「メッセージ」は完全に新しかった。
幸いなことに、シルヴィアには決定権があって先見性をもっていた。
グランドマスター・フラッシュはこの曲には参加しなかった。「こんな曲、誰が聞きたいんだ」と彼は思っていた。
メリー・メルはそのことに激怒していた。
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音楽的にも歌詞の面でも、全く違うことをやりたかった。いろいろ考えて作ったんだ。
俺はこの曲をトランス・ミュージックと呼んでいた。メロディは非対称な構造になっているが、ベースラインはずっと同じままだ。
通常、曲はヴァースがいくつかあって、フック(サビ)がひとつ。
しかし「メッセージ」は、フックが「Don’t push me, ‘cos I’m close to the edge」で、もうひとつ「It’s like a jungle sometimes」もフックなんだ。
さらに、電子的なエフェクトやパーカッションの音を多用した。当時、ブライアン・イーノの「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」を聴いていたんだ。

Brian Eno – David Byrne – My Life In The Bush Of Ghosts (1981)
via. Discogs
この曲がビッグになると最初に感じたのは、ミックスの時だ。
「ザ・メッセージ」は7分11秒の曲になった。
けれどもシルヴィアは、どういう訳かラッキーだと言うんだ。
彼女は数秘術にハマっていて、「いい予感がする」と。
彼女はその日の夜に、完成した曲をフランキー・クロッカーのところに持ち込んだ。フランキーは、ニューヨークでメインのラジオDJ。翌日にはオンエアされた。
この曲が大ヒットを記録したのは、その11日後のこと。
後にローリングストーン誌は、ヒップホップ史上ナンバーワンのレコードに「ザ・メッセージ」を指名した。
いつも思うのだが「クソッ、こんなことになると知っていたら、自分のためにとっておいたのに」