
Grand Master Flash & The Furious Five – The Message (1982)
via. Discogs
この曲が及ぼすであろう影響力について、シルヴィア以外の誰も理解していなかった。
俺たちは「まあ、そこまで言うなら…」的な感じだったんだ。
初期のヒップホップ・ファンたちがたむろしていた「フィーバー」にシルヴィアがやってきてレコードをかけたんだ。
あまり反響はないだろうと俺は思っていた。フィーバーはダンス・クラブだったからね。
けれども、みんな踊り続けたんだ。その時はじめて「これはいける」と思った。
The making of The Message : UNCUT August 2013
イギリスの音楽誌「UNCUT」2013年8月号に掲載されたインタビュー:ザ・メイキング・オブ「ザ・メッセージ」。
不朽の名作「ザ・メッセージ」の誕生の謎が、関係者の回想によって明らかにされていきます。
インタビューに参加したのは以下の4人。メインのラップを担当したフューリアス・ファイブのメリー・メル。「ザ・メッセージ」の作詞作曲者で、ギター以外のほぼすべてを演奏した(そしてこの曲のもうひとりのラッパー)デューク・ブーティこと、エド・フレッチャー。シュガーヒル・バンドのギタリスト、スキップ・マクドナルド。そして音楽面でのプロデュースを担当したジグス・チェイス。
インタビューの聞き手、ダミアン・ラブ氏の公式ページでは、当時掲載された貴重なインタビュー全文を読むことができます。
ヒップホップの枠を超えた「ザ・メッセージ」

Grandmaster Flash & The Furious Five – The Message (1982)
via. Discogs
「追い詰めないでくれないか、俺はぎりぎりのところにいるんだから」
スローでミニマル。不吉なグルーヴに、日常の悲観的な断片を描写した歌詞。「ザ・メッセージ」はヒップホップの新たな方向性を示した曲として知られています。
1982年7月にリリースされたこの作品は、初期ヒップホップのひとつの「型」であった陽気な自慢話やパーティーを盛り上げることから離れ、1980年代にパブリック・エネミーやBDP(ブギ・ダウン・プロダクションズ)、N.W.Aなどのチームが開拓していくことになる「より過酷な領域」への道筋を示しています。
しかし、これについて少し評価が低いのは、グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブの最も有名な曲が、グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブによるものではないということです。
1970年代半ばに、サウス・ブロンクスのストリートでグループを結成したターンテーブリストの先駆者、そのフラッシュ自身、このシングルの作曲にもレコーディングにも一切参加していません。
実際はフューリアス・ファイブのひとり、メリー・メルだけが参加しており、彼でさえ最初うちは参加に熱心ではなかったことを認めています。

Melvin “Melle Mel” Glover (circa 1983)
via. Michael Ochs Archives/Getty Images
「都市の真実」を歌った歴史的名作として掲げられる「ザ・メッセージ」。この曲の皮肉な事実は、それが古き良きブリル・ビルディングの「ヒット工場」を彷彿とさせる、システムの産物であったということです。
シュガー・ヒル・レーベルの伝説的なハウスバンドの一員で、スタジオ・パーカッショニストのデューク・ブーティことエド・フレッチャー。
「ザ・メッセージ」はフレッチャーのひらめきから生まれた曲であり、作曲に加え大部分の演奏は彼によるものです。
そして、シュガーヒル・レーベルのボス、シルヴィア・ロビンソンの指揮のもとレコーディングは進んでいきました。
音楽業界に精通したベテランであるシルヴィアは、この曲を売り出すための最適な「顔」として、フラッシュとフューリアス・ファイブを選びました。
そういう意味でも「ザ・メッセージ」はいくつかの点で、ラスト・ポエッツというよりも、モンキーズの「Pleasant Valley Sunday」と共通するものがあります。

The Monkees – Pleasant Valley Sunday (1967)
via. Discogs
しかしその結果、緊張状態が生まれ、グループの解散を早めてしまった。
けれども、その過程で紛れもない名曲が生まれました。
「必ずしも『都市』の曲ではない」メリー・メルは語ります。
「必ずしもヒップホップ・ソングとも限らない」
「人々は『ザ・メッセージ』をボブ・ディランと比較した。スティーヴィー・ワンダーの『Living For The City』や、テンプテーションズの『Masterpiece』と比較した。同じ血筋の名作だ。
グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブの存在を超え、ヒップホップの枠を超えた。『ザ・メッセージ』は、みんなの歌なのさ」
ヒップホップで一番重要なのはDJだった

グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブ(1980年)
中央、椅子に座っているのがフラッシュ、前列左がメリー・メル
via. Anthony Barboza/Getty Images
「ザ・メッセージ」インタビューによる制作秘話
メリー・メル:共作者、ボーカル
エド・”デューク・ブーティ”・フレッチャー:
共作者、ボーカル、キーボード、パーカッションスキップ・マクドナルド:ギター
ジグス・チェイス:共作者、共同プロデューサー
メリー・メル:ブロンクスでヒップホップが登場した初期の頃、(グランドマスター)フラッシュは俺たちの界隈のDJになったんだ。
俺とスコーピオと弟のキッド・クレオールは、フラッシュのブレイクダンス・クルーで、最初のMCだった。
俺たちが始めた頃、ヒップホップで一番重要なのはDJだった。ラッパーじゃなかったんだ。だからグループ名は「グランドマスター・フラッシュ & ザ・フューリアス・ファイブ」となった。
レコードを作り始めた時に名前を「ザ・フューリアス・ファイブ・フィーチャリング・グランドマスター・フラッシュ」に変更することもできたが、当時の俺たちは「名前を変えるのは(俺たちじゃなく)ハリウッドの方だろう」ぐらいの感じだった。しかし今にして思えば変えておくべきだった。
(「グラディス・ナイト&ザ・ピップス」というグループで例えるなら)みんなはフラッシュがグラディス・ナイトで、フューリアス・ファイブがピップスだと思っているようだが、自分的には俺がグラディスで、フラッシュがザ・ピップスだった。

Gladys Knight & The Pips – Neither One Of Us (1973)
via. Discogs
俺たちが最初に契約したのは「エンジョイ・レコード」だ。
オーナーはボビー・ロビンソン。シュガーヒルのシルヴィアとは(同姓だが)血縁じゃない。
ボビーの自慢は、「有名になる前の人」がレーベルに所属していることで、ヤツは俺たちをシュガーヒルに売った。
エンジョイ時代にリリースした曲は「スーパー・ラッピン」だが、後に「ザ・メッセージ」で、その歌詞を使うことになる。

Grandmaster Flash And The Furious Five – Superappin’ (1979)
via. Discogs
関連記事:Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)
シュガーヒル・レコードを指揮したシルヴィア・ロビンソン

Sylvia Robinson (1983)
via. Michael Ochs / Getty Images)
スキップ・マクドナルド:俺は「オール・プラチナ」というレコード会社でギターを弾いていた。シルヴィアが運営していた会社で後に「シュガー・ヒル」になった。
俺たちが戻ってきたのは、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」の頃だ。俺とベースのダグ・ウィンビッシュ、ドラムのキース・ルブランが戻ってきて、俺たちは「シュガー・ヒル・バンド」になったんだ。
ジグス・チェイス:初めてシューガーヒルに来たのは、ある女性アーティストの取引が目的だった。
いい感じに準備を整えたが彼女への反応は悪かった。しかし曲のアレンジを気に入ってくれ、俺はシューガーヒルに雇われることになった。
レコードではホーンやストリングスを担当。そしてシルヴィアの仕事ではプロデューサーに昇格した。
エド・フレッチャー:ジグスとは何年も前から一緒にバンドをやっていたんだ。
そこで彼が考えた計画は、俺たちのバンドをシュガーヒルに連れていき、スキップたちのバンドをクビにしようと。
しかし彼らは超上手だったんで諦めた。それでもジグスは俺をシュガーヒルに連れてきた。
マクドナルド:シュガー・ヒルのいつものやり方は、夜ディスコに出かけて、人々がどんな曲に反応して踊っているのか観察する。
それから、いろいろなレコードから一部分を切り取ってきて、ラッパーが歌うのための足がかりを作る、というものだった。
率先してその指揮をとっていたのが、シルヴィアだ。
「ラッパーズ・ディライト」はその典型的な例で、シックの「グッド・タイムス」を直接取り入れている。
「サンプリング前夜」みたいな感じだ。
グルーヴを学び、それを俺たちバンドが物理的に演奏していたんだ。
しかし、「ザ・メッセージ」は違っていた。あの音楽はエド・フレッチャーによるものだ。
「ザ・メッセージ」の作者はエド・フレッチャー

「シュガーヒル・バンド」
左から3人目が「ザ・メッセージ」の作者デューク・ブーティことエド・フレッチャー
via. Duke Bootee
フレッチャー:「ザ・メッセージ」のきっかけは、別の仕事をしている時のことだった。
休憩をとるのに外に出て、水を飲んでいた。その間、空のペットボトルでリズムを叩いていたんだ。
それを聞いていたシルヴィアは「ねえ!それを録音したい」と俺に言った。シルヴィアは常にアンテナを張っていたのさ。
すぐに「ペットボトルを使った、打楽器のみのトラック」を録音した。
それからシルヴィアの興味も一旦落ち着いて、曲はそのまま放置されていたが、今度はジグスが「あのトラックを何とかした方がいい」と言ってきた。
俺の家に集まって、曲に取り掛かることになったんだ。歌詞はその時に考えた。
チェイス:エドに聞いたんだ「さあ、何か思いついたか?」って。エドは独創的なんだ。
彼はソファに寝そべって、マリファナを吸っていた。顔を見ると無関心にも見える。
すると、その瞬間に降りてきた。
「押すなよ/ぎりぎりのところにいるんだから/正気を失わないようにしているのさ」
さらに、「まさにジャングル(無法地帯)だ、くたばらないようにしていることが、時々不思議に思う」
俺は「まじかよ! ヤバっ!」となって、大急ぎでシルヴィアに聞かせると、彼女も同じ反応だった、「これは何かある」と。
フレッチャー:歌詞の内容は自分の家のことではないが、周りで起こっていたことだ。
政治の話ではなく、ただ「ありのまま」を表現したかっただけだ。
マクドナルド:「ザ・メッセージ」はもともと、シュガー・ヒル・ギャングのレコードとして作られたんだ。

The Sugar Hill Gang (1980)
via. Anthony Barboza/Getty Images
誰もやりたがらなかった「ザ・メッセージ」

Grandmaster Flash And The Furious 5 – Freedom (1980)
via. Discogs
メル:シルヴィアはいつも同時に、複数のグループのトラックを手がけていた。
俺たち(フューリアス・ファイブ)の「フリーダム」は、もともとラヴバグ・スタースキーのために用意された曲だったが、シルヴィアは彼のバージョンに納得しなかった。
シュガー・ヒル・ギャングは「ザ・メッセージ」をやりたがらなかったし、俺たちもやりたくなかった。
チェイス:この曲はいつもの自慢話じゃない。ストリートについての曲だったから、みんなの評判はよくなかった。
メル:深刻すぎるんだ。当時、俺たちはパーティー用の曲を作っていたから、いつも通りにやりたい。誰もそんな曲を望んじゃいなかったのさ。
フレッチャー:「いいね」と言うやつはひとりもいなかった。フラッシュはこう言った。
「いいか、自分が抱えている問題を、ディスコに持ち込みたいやつなんていない」
彼らは出て行った。でもメルだけは戻ってきた。
メル:シルヴィアはやりたがってた。ここが肝心なところだ。次の曲が出るのはわかっていたし、やらないよりはやったほうがいいと思った。
チェイス:主導権はいつもシルヴィアにあった。
サウンドは「ザップ」+「トム・トム・クラブ」+「ブライアン・イーノ&デヴィッド・バーン」
メル:この曲が及ぼすであろう影響力について、シルヴィア以外の誰も理解していなかった。
俺たちは「まあ、そこまで言うなら…」的な感じだったんだ。
マクドナルド:最初の録音は全然違った、超ヘビーでアフロ・パーカッション的なバージョンだった。
チェイス:水のペットボトルとパーカッションのグルーヴ。
「ジャングル」という歌詞は、そこから来ているのかもしれない。
このバージョンは、まあまあ良かったんだけど、俺らをノックアウトするほどの出来ではなかった。
フレッチャー:正直「売れる」曲じゃなかった。
チェイス:そしてエドが、あのシンプルなやつを思いついたんだ。
フレッチャー:ちょうどザップが「More Bounce To The Ounce」をリリースしたばかりで大好きな曲だった。それと、トム・トム・クラブの「Genius Of Love」もお気に入りだった。
あと、ブライアン・イーノとデヴィッド・バーンの「My Life In The Bush Of Ghosts」もよく聴いていた。
音楽的に「ザ・メッセージ」 はこれらを組み合わせたようなものだ。
チェイス:ぴったりハマったんだ。スキップが(ギターを)いくつか追加した。俺たちは「これだ」と思った。

Zapp – More Bounce To The Ounce (1980)
via. Discogs

Tom Tom Club – The Genius Of Love (1981)
via. Discogs

Brian Eno – David Byrne – My Life In The Bush Of Ghosts (1981)
via. Discogs
フレッチャーの「仮歌」がそのままOKテイクとなった
フレッチャー:パーカッションを逆回転で再生したり、トリッキーなことをやった。でも、それ以外はシンプルにしたんだ。
俺はいわゆる「トランス・ミュージック」にハマっていて、動きのあるベースラインは求めていなかった。
その他の演奏者はスキップ(マクドナルド)だけだ。「ザ・メッセージ」は、スキップとダグとキースが一緒にプレイしなかった、初めてのシュガー・ヒルの曲になった。
ドラム・マシンは「DMX」。シンセサイザーの「プロフェット5」は俺が弾いた。俺のパーカッションとスキップのギター、そしてボーカルだ。

Oberheim DMX drum machine (1981)
via. retrosynthads

Sequential Circuits The Prophet 5 (1980)
via. retrosynthads
メル:誰がどのヴァースを担当するかは、シルヴィアが決めた。
デュークがイントロで、俺が最初と2番目のライム。デュークが3番目と4番目、俺が最後に韻を踏む。
フレッチャー:当初は、リファレンス・ボーカル(仮歌)のつもりで歌っただけだった。最終的には誰かが歌って曲を完成させると思っていた。俺はラッパーじゃなかったからね。
でもシルヴィアはそれを気に入ってくれた。彼女はフューリアス・ファイブのメンバー全員にも試してみたんだ。
ラヒームがボーカルを担当すると思っていた。ビデオで(俺の声に合わせて)「口パク」してるのがラヒームだ。
しかし、シルヴィアは俺の声の中に、俺にはわからない何かを感じ取っていた。
(後に)スヌープ・ドギー・ドッグが、俺の声にどれだけ影響を受けたかを教えてくれた。他のみんなとは違っていたという。
「さあ、手を空にかざすんだ」の決まり文句もない。明らかに 「これだ!」って感じだった、と。
メル:最後に「a child is born….」っていう「スーパー・ラッピン」の歌詞を試してみた。
こうして、誰もが知っている「ザ・メッセージ」ができあがった。
「7分11秒」はラッキーナンバー

「ザ・メッセージ」の演奏時間は7分11秒
via. Discogs
フレッチャー:シルヴィアは、エンジョイ・レコードのボビー・ロビンソンから、「メルの歌詞」を買い取った。ボビーを夕食に誘い、取引はうまくいった。
素晴らしい歌詞だ。俺が唯一書いていないフレーズだ。メルは今でも史上最高のラッパーだ。本当にすごい。
マクドナルド:シュガー・ヒルのレコード作りは超早かった。月曜日にレコードをカットして、金曜日にラジオで聴くこともあった。
フレッチャー:「ザ・メッセージ」のミックスは、シルヴィアとジグスと俺の3人でやった。
フェードダウンすると(曲の長さは)7分11秒になった。ばかみたいに長いレコードだ。
それを見たシルヴィアは、こう言った「ちょっとまって、嘘でしょ。一刻も早くラジオでオンエアしなくては」
シルヴィアは「数秘術」に凝っていて、7と11は最も幸運な数字だというんだ。
次の日「ザ・メッセージ」は、ラジオで何度も繰り返し放送されることになった。
マクドナルド:完成したレコードを初めて聴いたのは、WBLSのラジオだった。
フレッチャー:帰りの車の中、初めてラジオで「ザ・メッセージ」を聞いたことを覚えている。
それまで自分の演奏をラジオで聞くことはあった。パーカッショニストとしての、自分の演奏を聴くの何でもないことだった。
でも、自分のボーカルを聴くのは「ちょっと考える時間をくれ」という感じだった。
メル:できあがった曲を最初に聴いたのは「フィーバー」だ。初期のヒップホップ・ファンたちがたむろしていた場所で、ここにシルヴィアがやってきてレコードをかけたんだ。
あまり反響はないだろうと俺は思っていた。フィーバーはダンス・クラブだったからね。
けれども、みんな踊り続けたんだ。その時はじめて「これはいける」と思った。