
Grandmixer D.ST performing “Rockit” at the 1984 Grammy Awards.
via. CBS
「セルロイド」には、ドラマーでもあるDJ、グランドミキサーD.STが在籍していましたが、ラズウェルはD.STのことはすぐに思いつかず、代わりにアフリカ・バンバータに助言を求めました。
Groove Music: The Art and Culture of the Hip-Hop D.J.
ハービー・ハンコックが、1983年リリースのシングルカット曲「ロックイット」は、第26回グラミー賞で最優秀R&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス賞を受賞。この授賞式は1984年2月28日に生中継され、マイケル・ジャクソンが8つのトロフィーを手にしたことで、テレビ視聴者数が歴代最多5167万人を記録しています。
ハンコック初のグラミー受賞曲にスクラッチDJとして参加し、その歴史的なグラミー賞に、史上初めてステージに立ったヒップホップ・アーティストが、グランドミキサーD.ST(DXT)です。

賞発表の瞬間を待つハービー・ハンコック(中央)とD.ST(その左)
via. CBS
後のレジェンドたち、たとえばミックス・マスター・マイクはDJになるきっかけが「ロックイット」のD.STだったとインタビューで語っています。しかし、プロデューサー、ビル・ラズウェル氏によると、「ロックイット」の企画の段階で、D.STがDJの第1候補ではなかった、という話題です。
ヒップホップの歴史書「Groove Music: The Art and Culture of the Hip-Hop D.J. 」と、ハービー・ハンコックの公式サイト「Feature: The Making of ‘Rockit’」の記事より。どちらもビル・ラズウェル氏のインタビューをまとめたものです。
1983年、ジャズ・キーボード奏者で作曲家のハービー・ハンコックは、コロンビア・レコードから次のリリースを予定していました。ハンコックのマネージャーであったトニー・メイランドは、新しいサウンドを求め(ジャズ・ベーシストで音楽プロデューサーの)ビル・ラズウェルにコンタクトを取りました。
ラズウェルは、(ジャズに)ターンテーブルを取り入れる、という「変化球」を提案。ハンコックが同意したので、ラズウェルは「ドラマーのように、正確な拍子で演奏できるDJ」を探すことになります。
ラズウェルが代表を務めるレーベル「セルロイド」には、ドラマーでもあるDJ、グランドミキサーD.ST(1989年からDXTと名乗る)が在籍していましたが、ラズウェルはD.STのことはすぐに思いつかず、代わりにアフリカ・バンバータに助言を求めました。
ラズウェルは曲の構成要素として「スクラッチ」を使いたかったので、友人のアフリカ・バンバータに電話して助言を求めました。「ターンテーブルには誰を使ったらいい?」ラズウェルは回想します「するとバムは言ったんだ、『ウィズ・キッド』と」
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ウィズ・キッドは(1983年にトミーボーイレコードから)ソウル・ソニック・フォースのMCグローブと「プレイ・ザット・ビート・ミスターDJ」という人気レコードをリリースした人物で、この曲はスクラッチを使った最初のレコードのひとつでもありました。

Play That Beat Mr. D.J. – G.L.O.B.E. & Whiz Kid (1983)
via. Discogs
「それでウィズ・キッドに電話したら、彼はちょうど軍隊に入ったとかで都合がつかなかった。それで彼は弟子のDJチーズに電話するように言ってきたんだ」とラズウェルは回想します。
ラズウェルは、プロジェクトに参加する人物が「チーズ」という名前だと、重役たちからのゴーサインが出ないのではと心配し、すでに知っている人物、D.ST.を使うことにしました。
ブロンクス北東部のエデンワルド・プロジェクト出身のD.STは、ナイトクラブ「ロキシー」でスピンした最初のヒップホップDJのひとり。「ロックイット」の成功後、当時まだ21歳だったD.STは、ハービーのバンドに誘われ、その後3年間ツアーを共にすることになります。

1984年イギリスの音楽番組、The Tubeに出演し、ハービー・ハンコック・バンドのメンバーとして「ロックイット」をプレイするD.ST(1984年)
via. Tyne Tees