Run-DMC ファーストアルバム 全9曲レビュー

Run-D.M.C. ‎– Run-D.M.C. (1984)

Run-D.M.C. ‎– Run-D.M.C. (1984)
via. Discogs

Run-D.M.C.’s ‘Run D.M.C.’ at 30: Classic Track-by-Track Review : billboard

「ロック・ボックス」のビデオクリップが有名なのは、MTVで放送された初のラップ・パフォーマンスであったこと。

「他のバンドなんかより、俺達のDJはイケてる!」というランの叫びは、ある意味ラップ世代の決起集会を連想させ、まるでヒップホップはロックンロールを超えて、若い世代の新しいサウンドだと言っているかのようです。

Run-DMCのファーストアルバム、リリース30周年を記念しての特集記事より。

アメリカの音楽専門メディア「ビルボード」にて、ヒップホップ系ライター、ポール・カンター氏がファーストアルバム収録の全9曲をレビュー。

加えてアルバムが生まれた背景などを詳細に紹介しています。

ファーストアルバム「Run-D.M.C.」が生まれた背景

"Run-D.M.C." album back cover (1984)

“Run-D.M.C.” album back cover (1984)
via. Discogs

Run-D.M.C.がセルフタイトルのデビューアルバムをリリースしてから30年。初めてレコード店に並んだのが、1984年3月27日のことです。

「文化遺産」とも言えるこのアルバム。メンバーは伝説のラッパー、ジョセフ”ラン”シモンズと、ダリル”DMC”マクダニエルズ。そしてグループのDJ、ジェイソン”ジャム・マスター・ジェイ”ミゼルの3人。彼らは共にクイーンズ・ホリス出身です。

Run-D.M.C.’s ‘Run D.M.C.’ at 30: Classic Track-by-Track Review : billboard

元々は「オレンジ・クラッシュ」と名乗っていたこのグループは1982年に結成。その後ランがソロ・シングルとして「ストリート・キッド」をリリースするも話題にも上らなかったため、兄のラッセル・シモンズは、トリオ・グループの結成へと路線を変更。

グループの名前を「Run-D.M.C.」に決定し、デモテープの準備に取り掛かります。

メンバーと同じ地元、クイーンズに住んでいたプロデューサー、ラリー・スミスの自宅スタジオにて「イッツ・ライク・ザット」の初期バージョンをレコーディング。

このデモを聞いたプロファイル・レコードの共同設立者、コーリー・ロビンズはラッセルを口説き、すぐに契約を結ぶことになります。

Run-DMC with Russell Simmons (1985)

Run-DMC with Russell Simmons (1985)
via. James Hamilton

ロビンズはグループに2000ドルを渡し、シングル曲として「イッツ・ライク・ザット」の再録音を依頼。それに対しグループは、追加曲として「サッカー M.C.’s」をプラスして応えました。

この2曲は1983年に12インチ・シングルとしてリリース。

当時の都市型ラジオがヒップホップを受け入れるには、まだ早すぎましたが、ニューヨークのラジオ局「Kiss FM」にて曲をかけるチャンスを得ました。そして、他のラジオ局もそれに追随。

「イッツ・ライク・ザット」は最終的にホットR&Bのチャートで15位まで上昇し、25万枚以上のセールスを記録しました。

しかし、売れ行きが好調であったにもかかわらず、ヒップホップはまだ黎明期にあったため、表向きはシングル中心のビジネスでした。

「フルレングスのアルバムを販売する」という考えすらも当時は冒険的。

しかしそれもRun-DMCの次のシングル「ハード・タイムス」が、ホットR&Bの11位にランクインするまでの話でした。

Run-D.M.C. ‎– Hard Times (1983)

Run-D.M.C. ‎– Hard Times (1983)
via. Discogs

ホリス出身の青年達は訴えかけます。

ミニマルでありながら攻撃的なRun-DMCの演奏(トラック)は、スムーズなR&Bを取り入れた当時のラップソングとは全く対照的でした。

よく響くDMCのヴォイスと、ランはラップでシャウト。加えてグループの「操縦席」で熟練の技量を披露するジェイ。彼らに魅了されずにはいられませんでした。

さらに、他のMCがディスコ風の派手な衣装に身を包んでいる中、Run-DMCはトラックスーツにカザールのサングラス、そしてアディダスを着用していました。

彼らはストリートの人々が、ストリートのためのレコードを作っているように見えました。

ヒップホップが音楽の本流となる以前から、彼らは本物だったのです。

Run-D.M.C. ‎– Rock Box (1984)

Run-D.M.C. ‎– Rock Box (1984)
via. Discogs

もうひとつのデビュー曲「ロック・ボックス」は、MTV初のヒップホップ・ビデオとしてオンエア。

ミュージック・ビデオによるメディアへの露出に加え、27日間に渡る全米ツアー「フレッシュフェスト」の過酷なライブスケジュールとの相乗効果は、アルバムの成功をもたらしRun-DMCをスーパースターへと導きました。

それでは、デビューアルバム発売30周年を記念して、収録された名曲9曲をもう一度振り返ってみましょう。

Hard Times

Kurtis Blow ‎– Hard Times (1980)

Kurtis Blow ‎– Hard Times (1980)
via. Discogs

「ハードタイムズ」

この曲は元々カーティス・ブロウが作詞し、レコーディングしていたもの。

カーティス・ブロウは、ラッセル・シモンズがマネージメントしていたラッパーで、ランがDJとしてライブに参加していたこともあります。

1980年にリリースされたセルフ・タイトルのデビュー作「カーティス・ブロウ」に収録されたバージョンは、ファンク寄りの曲でした。

これに対してRun-D.M.C.バージョンは、すべてのメロディーを剥ぎ取り、印象としてはドラムマシンのパタパタ音のみのサウンドに。

その上でDMCとランは、オールドスクールなパーティー・ロッキングを受け継いだ伝統的なライムを展開。当時としては違和感のないものでした。

「物価が上がって懐具合が悪くなる、金に困って身動きがとれない」のような歌詞は、彼らが生きていた1980年代のニューヨークの環境を表現。まだ流行していなかったラップミュージックにリアリティを与えています。

Rock Box

Eddie Martinez with Run-DMC. music video for “Rock Box” (1984)

Eddie Martinez with Run-DMC. music video for “Rock Box” (1984)
via. YouTube/Run DMC

「ロック・ボックス」

話によると、メンバーは「ロック・ボックス」のレコーディングを躊躇していたといいます。初期バージョンのベースのグルーヴは、しっくりこない感じがあったと。

結果的にプロデューサーのラリー・スミスは、キーボードの音色を厚みのあるものに変更することで、彼らの承認を得ました。

さらに、人気セッション・ミュージシャンであるエディ・マルティネスが、特徴的なリード・ギターのフレーズを演奏したことで、白人のオーディエンスに向けたロックの要素が生まれました。

「ロック・ボックス」のビデオクリップが有名なのは、MTVで放送された初のラップ・パフォーマンスであったこと。

「他のバンドなんかより、俺達のDJはイケてる!」というランの叫びは、ある意味ラップ世代の決起集会を連想させ、まるでヒップホップはロックンロールを超えて、若い世代の新しいサウンドだと言っているかのようです。

関連記事:名曲「ロック・ボックス」はこうして生まれた。Run-DMC ダリル・マクダニエルズが語る、ラリー・スミスの手腕

Jam-Master Jay

Jam Master Jay. music video “Rock Box” (1984)

Jam Master Jay. music video “Rock Box” (1984)
via. YouTube/Run DMC

「ジャム・マスター・ジェイ」

初期のヒップホップ・ミュージックは、ライブ・ミュージックやパーティーの「体験」から生まれたものだった。だからDJは非常に重要な存在でした(最初、彼らはラッパーでもあった)。

「ジャム・マスター・ジェイ」は、パーティーを盛り上げるRun-D.M.C.のバックボーンにスポットを当てた作品。

カッティングやスクラッチが多用されており、ジェイのDJスキルをアピールしています。

構造的には、まだラップソングを作るためのフォーマットがなかったので、ここではジェイがカッティングしている間に二人が短い詩を連発しています。

この曲は歌というよりも「体験」。パーティーでの演奏を再現しています。

Hollis Crew (Krush-Groove 2)

Lovebug Starski – Starski Live At The Disco Fever (1983)

Lovebug Starski – Starski Live At The Disco Fever (1983)
via. Discogs

「ホリス・クルー(クラッシュ・グルーブ2)」

「ホリス・クルー」では、ラヴバグ・スタースキーのシングル曲「ライブ・アット・ザ・ディスコ・フィーバー」と同じタイプのスタッカートなハンドクラップを採用。

トラックのリズム感を「共有」しながらも、ディープなキックやスネアの音はよりシャープで機械的に。ドラムマシンが暴走するアグレッシブなサウンドに仕上っています。

「サッカーM.C.’s」の兄弟バージョンとも言える「ホリス・クルー」は、ランとDMCがお互いのセリフを補い合いながら自慢話のようなライムを展開。ペアになった時に強力なパワーを発揮する相性の良さを完成させています。

*「ホリス・クルー」と「サッカーMC’s」そして、ラヴバグ・スタースキーの「ライブ・アット・ザ・ディスコ・フィーバー」の共通点は、プロデューサーがラリー・スミスで、演奏はオレンジ・クラッシュによるもの。

当時時間を共有することの多かったRun-DMCとラヴバグ・スタースキーは、同時期に同じスタッフでシングルをレコーディングしたと、ラヴバグ氏はインタビューで語っています。

関連記事:「ヒップホップという言葉を作ったのは俺だ」:ラヴバグ・スタースキー インタビュー

Sucker M.C.’s (Krush-Groove 1)

Oberheim DMX drum machine (1981)

Oberheim DMX drum machine (1981)
via. retrosynthads

「サッカーMC’s (クラッシュ・グルーブ 1)」

ヒップホップの歴史の中で最も有名なドラムのパターンはこの曲から生まれました。

「ホリス・クルー」との若干の違いは、オーバーハイムのドラムマシン「DMX」から「コアキック」「スネア」「ハンドクラップ」の音色のみに限定していること。

さらに赤ちゃんにもついてこれるほど、シンプルなリズムにプログラムされています。

歌詞の面ではランがオープニングに語る古典的なセリフが、最も広く記憶されているラップのリリックの一つとして定着しています。

「2年前俺の友達が/俺にMCのライムをやってくれないかと頼んできた/だから今から言う感じに、韻を踏んでいったんだ/ライムの出来は最高だった、それはこんな感じだ」

ラップミュージックという競争の激しい環境で、ある意味ハッタリに近い「成功宣言」を連射していくRun-DMCのスタイルです。

It’s Like That

Run-D.M.C. ‎– It’s Like That (1983)

Run-D.M.C. ‎– It’s Like That (1983)
via. Discogs

「イッツ・ライク・ザット」

ラップ・ミュージック黎明期の節目にリリースされた「イッツ・ライク・ザット」は、社会的な欲求不満を具現化し、レコード盤に記録したもの。

こういったコンセプトのレコードとしては初めての曲ではありませんが、人々に偽りの希望を売らずに、淡々と「苦難への回顧録」を提供したことが最大の特徴。

「そんなもんだ、それが現実だ」というリフレインが、そこを明確に示しています。

音数の少ないドラム・トラックに、シンセのスタブ音、ホワイトノイズの風が吹くミニマルな構成は、ランとDMCにライムのためのスペースを提供。

否定できない信念をテーマに韻を踏んだことで、一夜にして彼らは「権利を奪われた同世代」の代弁者となりました。

Wake Up

Run Dmc Live In Concert (1984)

Run Dmc Live In Concert (1984)
by Raymond Boyd

「ウェイクアップ」

アルバムの中で最もクレバーな作品の一つ。キックドラムに合わせて安定感のある低音が鳴り響く「ウェイクアップ」は、オールドスクールなスウィングを感じさせます。

1980年代に浸透していたポップミュージックのテーマのひとつ、世界の平和と団結を誓いMC達はメッセージを送ります。

(すべての国と国とは、良好な関係を築いていた/ようやく国連が存在することに意味が/そして、誰もが定職に就いていた/我々は一丸となって飢餓と闘った)

現代の基準からすれば、当たり前ことを言っているにすぎない歌詞ですが、しかし、少なくともグループの「心」は正しい場所にありました。

関連記事:その「時代」のリリック(歌詞)は、私たちに何を語る?

30 Days

The Weather Girls ‎– It’s Raining Men (1982)

The Weather Girls ‎– It’s Raining Men (1982)
via. Discogs

「30デイズ」

冒頭からランは、ウェザー・ガールズの1982年のヒット曲「イッツ・レイニング・メン」を引用(「チマタでは『空から降って来る男達』が話題だが、しかし俺が紹介するのは一回限りのスペシャルオファーだ」)。ラリー・スミスが弾くシンセの「ビショビショ」な音に乗って、MCの2人が騒ぎだします。

確かにこの曲は、アルバムの中で最もR&B色の強い曲。というもの、アルバム全体から音楽性を排除することはできません。

ドラム・マシンだけでこれだけ長時間、サウンドへの興味を持続させることは不可能ですから。

Jay’s Game

Jam Master Jay (1980s)

Jam Master Jay (1980s)
via. #jasonmizell

「ジェイズ・ゲーム」

アルバムの最後に登場するのはジャム・マスター・ジェイ。

曲中では(ジャム・マスターの名前を「J-A-Y」のように)メンバーの名前を切り刻んで「カット・アップ」していきます。

ジャム・マスター・ジェイはいつもグループをまとめる「結束力」であり、それはいつも筋が通っていました。おそらくアルバムの締めくくりとして、最もふさわしい存在でしょう。

2002年10月30日、彼は何者かに撃たれ帰らぬ人に。しかしスターとしてのジャム・マスター・ジェイは、1984年のこのアルバムから始まったのです。

このアルバムには、彼の痕跡がいたる所に残っています。

音的というより、少なくとも「美意識」としてジャム・マスター・ジェイの痕跡が残っています。一見控えめではありますが、この初期の作品には、はっきりとそれが残っています。

ジャム・マスター・ジェイ無しでRun-D.M.C.は存在しないのです。

関連記事:Run-DMC(ラン・ディー・エム・シー)

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