
Run-D.M.C. – Rock Box (1984)
via. Discogs
俺は曲の土台になるビートを作り、その上にランと俺でライムのルーティンを載せた。ラップのパートが完成すると俺達はスタジオを出た。
戻ってくるとすでに、ギターとベースラインやパーカッションのベルの音が入っていて、ラリーは「ロック・ボックス」という傑作を完成させていたんだ。
Key Tracks: Run–D.M.C’s “Rock Box” : Red Bull Music Academy
音楽メディアRed Bull Music Academyのインタビュー記事より、Run-DMCのDMCこと、ダリル・マクダニエルズが語る名曲「ロック・ボックス」の誕生秘話。
収録されたファーストアルバム「Run-D.M.C.」の誕生30周年を記念して、またアルバムのプロデューサー、故ラリー・スミスを偲んで行われたインタビューです。
ラリー・スミスは、2014年12月19日に死去。インタビューはその4日後の、12月23日に行なわれたものです。
ラリー・スミスを偲んで、ダリル・マクダニエルズにインタビュー

Larry Smith (left) with Run-DMC. (L-R) Jam Master Jay (Jason Mizell), DMC (Darryl McDaniels) and Run (Joseph Simmons) (1984)
via. Gene Bagnato
Key Tracks: Run–D.M.C’s “Rock Box” : Red Bull Music Academy
「Run-D.M.C.」のメンバーとして知られる、D.M.C.こと「ダリル・マクダニエルズ」と、ランこと「ジョゼフ・シモンズ」、ジャム・マスター・ジェイこと「ジェイソン・ミゼル」たちは、1980年代半ば時代の先端に居ました。
シモンズとマクダニエルズは、何年もかけてラップの対話表現と軽妙なやりとりを完璧なものに仕上げていき、そろそろ自分たちの才能を、レコードの上で披露する準備ができていると感じていました。
最終的にシモンズは、兄であるラッセル・シモンズにアプローチをかけ、レコーディングのチャンスをつかみます。
ラッセル・シモンズは弟の願いを受け入れ、その後まもなくRun-D.M.C.が誕生しました。
Run-D.M.C.は、ヒップホップの「設計者」として伝説となった、ラリー・スミスと共に活動を開始。彼らはロックとヒップホップを融合させた画期的な作品を作り上げました。
それが、1984年3月27日、プロファイル・レコードからリリースされたアルバム「Run-D.M.C.」です。
このアルバムは、メンバー3人にとって、その後10年間大成功を収めることとなる、一連のアルバムの第1弾となりました。
アルバムからは4曲のヒットシングルを生み出しました。「イッツ・ライク・ザット」「ハード・タイムズ」「サッカーMC’s」そして、このアルバムを象徴する「ロック・ボックス」です。
アルバム「Run-D.M.C.」の誕生30周年を記念して、そしてプロデューサーのラリー・スミスの死去を受けて、ダリル・マクダニエルズに 「ロック・ボックス」と、その「構造」について話を聞きました。
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サウンドはすべてラリーが作った

Larry Smith (1984)
via. Trevor Greene
グループのデビューとなった、このアルバムについて、あなたとランは、どういった音楽やサウンドにしたいのか、アイディアを持っていましたか?
また、ラリー・スミスは、そのプロセスに欠かせない存在だったのでしょうか?
サウンドはすべてラリーが作った。
そして俺たちには、どんなレコードにしたいかアイディアがあった。たとえばシュガーヒル・ギャングがやっていたことだったり、典型的なR&Bチャートの音楽にラップを乗せることはしたくなかった。
ブラックミュージック専門のラジオ番組でかかっていたような、おなじみの曲を頂戴してレコードを作ることはしたくなかったんだ。
ランと俺は「ビート・ジャム」をやりたかった。それは、グランドマスター・フラッシュやグランド・ウィザード・セオドア、チャーリー・チェイス、トニー・トーンのようなDJ達が、レコードを作る前にやっていたこと、カセットテープ時代のブレイクビーツにライムを乗せたかった。
俺たちはヒップホップ・ショーのライヴ録音みたいなレコードを作りたかったのさ。
サウンド・プロデュースはラリーだが、アレンジメントと作曲はすべて俺たちによるものだ。レコードの上でパーク・ジャムを再現したのさ。
「イッツ・ライク・ザット」を聴くと、流れるビートが「プラネット・ロック」からの影響だということに気付くだろう。

Afrika Bambaataa & The Soul Sonic Force – Planet Rock (1982)
via. Discogs
もともと「イッツ・ライク・ザット」にはベースラインがあったのだが、クラフトワークの「ナンバーズ」みたいなレコードにしたいと考えたんだ。
全ての曲のビートを「ジャム」によるもので完成させたかったし、ラリーとラッセル(シモンズ)は、俺たちのビートをラジオ用のフォーマットに変換する天才だった。
俺とジョー(ラン)は「イッツ・ライク・ザット」と「サッカーMC’s」を作り、さらにジャム・マスター・ジェイと一緒に「ハード・タイムズ」を作った。
その後、ラッセルはアルバムを作ると提案してきた。
しかし、唯一問題があった。
それはマザーファッカーなヤツらが、ヒップホップのシングルを聴きたがらなかったことだ。
当時、誰もがラッセルに「ヒップホップ・ミュージックは流行だ」と言っていた。「5年後には廃れているだろう。アルバムなんか買うやつがいると思うか?」ってね。
だから、ラッセルが俺達にアルバムを作りたいという話を持ちかけてきたとき、ジョーは「いいだろう、じゃあドープなビート・ジャムをやらなきゃね」と言った。
「DMX」のビートにライムのルーティンを載せた

Oberheim DMX drum machine (1981)
via. retrosynthads
アルバムは最初のシングル4曲に、新曲を加えたものだった。
「ロック・ボックス」を作った時、俺はビリー・スクワイアの「ザ・ビッグ・ビート」をやりたいと思った。
ラリーはドラムマシンの「DMX」を引っ張り出してきて、「ビートを鳴らせ」と俺に言った。
サンプリングなんか使いたくなかったから、自分たちでビートを作ったんだ。そんな訳で別のサウンドに作り変えた。
俺は曲の土台になるビートを作り、その上にランと俺でライムのルーティンを載せた。ラップのパートが完成すると俺達はスタジオを出た。
戻ってきた頃にはパーカッションのベルの音と、ギターとベースラインが入っていて、ラリーは「ロック・ボックス」という傑作を完成させていたんだ。
ランやジャム・マスター・ジェイとの共同製作のプロセスについて教えてください。
ラリーが作ったビートに会わせてライムを書く事もあったし、曲のビートに合わせてライムを書く事もあった。余裕さ。
俺がスタジオ入りするときは、いつもライム(韻)をメモしたノートを持参していた。
するとラッセルは「おい、D(ダリル)『ライム帳』を見せてくれ」と言い、俺のノートの中から「この歌詞と、この歌詞と、この歌詞でラップしてくれ」と指定してきた。
さらにラッセルは「ジョーイ(ラン)は8小節のイントロをやってくれ」「ラリーは曲を作ってくれ」と割り振っていった。楽勝だったよ。
おれたちの出番が終わって、完成した「ロック・ボックス」を聴いていると、ジョーが俺に「D、今度はこの曲でラップだ」みたいにやっていった。
俺は「ライム帳」を引っ張り出してきて、韻を踏むだけ。
ラリーは録音した音源を編集して、それをまとめて曲を作っていった。
スタジオでのセッションから曲を完成させるまでに、どれくらいの時間がかかりましたか?
1日に5曲はできたよ。だいたい1日に、2曲〜3曲は仕上って、1週間でアルバム収録曲の録音は完了した。
最初の2枚のアルバムは、グリーン・ストリート・レコーディング・スタジオで録音されたものだ。
ロディ・ホイとラリー・スミスは編集とミキシング、テープのカットに時間を費やしていた。
今ではプロ・ツールがあるけど、当時は文字通りテープをカットして、それぞれピースをまとめて編集しなければならなかった。それがとても時間がかかる作業だったんだ。
俺達はすでにライムを用意していたので、アルバムのレコーディングに関しては余裕だった。
ただ、アルバムに収録するための曲が必要だっただけだ。
ラリーが「ラジオ用」に曲の構成を編集した

Larry Smith (left) with Jam Master Jay
via. Gene Bagnato
そこでラリー・スミスの登場です。
まさにその通り。
ジョーと俺が帰った後も、(ジャム・マスター・)ジェイはラリーと一緒にいた。ジェイはレコーディングの学校に行ったことがない。
膨大な時間、ジェイはラリーと一緒にいて(機材や録音技術について)質問していった。
「そのボタンは何のためにあるの?
いまやっていたのは何?
このつまみは何に使うの?
どうやってやったの?」そうやってジェイはラリーからいろいろ学んだ。
ジョーと俺はそんなことに興味がなかったが、ジェイはDJだから、もっと学びたいと興味津々だった。
ジャム・マスター・ジェイは、ラリー・スミスの「生徒」だったのさ。
ラリーが500時間スタジオにいたら、ジェイも500時間スタジオにいた。
俺達がツアーに出てライブをやった後も、スタジオに戻ってラリーと一緒にいた。俺達は家に帰っているのにね(笑)
アルバム制作中の、4人の相互関係について教えてください。
実際、グループでの「関係性」については、レイジング・ヘルまで固まっていなかったんだ。
(レイジング・ヘルが完璧だったのは、そこをクリアしたからなのだが)
元々は、ジョーが自分のことをやって、俺も自分のことをやった。ラリーも自分のことをやっていて、それを全部うまくまとめていた。
俺達がステージでやっていたことも、レコードの「素材」になった。
まるで沸騰した鍋のお湯の中に、4人全員がそれぞれ何かを入れているようなものだった。
どんなものが出てくるのか、いいものができあがるように、みんなで祈ったのさ。
(笑)幸いにも、いいものができたのはラリーのおかげだ。
「サッカーMC’s」で俺達はやったことは、ただ韻を踏むことだったが、ラリーが偉大なミュージシャンだったおかげで、ちゃんとした「構造」のものが完成したのさ。
「ロック・ボックス」では曲を通してライムすることもできたが、ラリーは「そこは(ラップを)一時停止して、曲に『息継ぎ』を入れよう」とアドバイスをくれた。
ラリーは俺達に「音楽の構造」を教えてくれた。
当初「ロック・ボックス」は、スプーニー・ジーの「ラブ・ラップ」や、ジミー・スパイサーの「アドベンチャーズ・オブ・スーパー・ライム」のようなものだった。

Spoonie Gee And The Treacherous Three – Love Rap (1980)
via. Discogs

Jimmy Spicer – Adventures Of Super Rhyme (1980)
via. Discogs
どちらも、ただ韻を踏んでいるだけの曲だが、「ロック・ボックス」も曲の最初から最後まで韻を踏んでいるだけだった。
しかし曲の途中、ラリーはテープをカット編集して、ブレイクダウンの部分を作った。
ラリーは俺達に、曲に「息継ぎ」が必要だと念を押した。曲の構成を、ラジオに適したものにするための配慮だ。
昔のラジオ番組、「ミスター・マジック」や「オーサム・ツー」「ザ・シュプリーム・チーム」「エディ・チーバ」の番組では、でかい45回転(12インチシングル)を延々かけてくれた。
しかし、KISS、WBLS、KTUなどのラジオ局で曲をかけてもらうためには、ラジオのオーディエンスのために、こうした配慮が必要だった。
そこでラリーの音楽技術がいかされたのさ。
「ロック・ボックス」のギターは、エディ・マルティネス

Eddie Martinez with Run-DMC. music video for “Rock Box” (1984)
via. YouTube/Run DMC
楽曲制作に使われた楽器を教えてください。
メインの楽器はドラムマシンの「DMX」だった。
その他は生の演奏。生のベースと生ギター、キーボード、タンバリンやカウベルを入れた。
ビートに合わせてボーカルを入れた後、部屋にあるものは何でも使って録音していった。スタジオにキーボードやカウベル、他にもなにかあれば使えないかと、いろいろ確かめながらレコーディングしていったのさ。
バンドの場合は違う。ベースがいて、ギターがいて、ドラムの音を撮るにはマイクが必要だ。
俺たちのプロセスは、ドラムマシンでビートを作って、スタジオの中を見回して、シンセサイザーを使ったり、他にも何かあったら使って録音していくというものだった。今振り返ってみると面白いね。俺たちは色々なことを実験したんだ。
俺たちのレコードで唯一、生楽器でないのはドラム・マシンだ。
ベースやギターはラリーが弾き、「ロック・ボックス」のギターは、エディ・マルティネスが弾いた。
ドラム以外の楽器は、全て生演奏なのさ。
「ロック・ボックス」こそRun-DMCの代表曲

“Run-D.M.C.” album back cover (1984)
via. Discogs
このアルバムはヒップホップの歴史の中でも最も重要な録音です。
30年を振り返ってみて、無数のヒップホップ・アーティストだけでなく、ポピュラー・カルチャー全体に与えた影響についてはどう感じていますか?
まあ、多くの人々は「ロック・ボックス」のことを忘れてしまっている。みんな「レイジング・ヘル」とか「ウォーク・ディス・ウェイ」のことは振り返る。
しかし、トラヴィス・バーカーみたいに、「ウォーク・ディス・ウェイ」ではなく、「ロック・ボックス」を聴いて人生が変わった、と言う人もいるんだ。
メタル・ヘッズやパンクロック・ヘッズたちに言わせても、みんな同じことを言っていたよ。
多くの人々は「ウォーク・ディス・ウェイ」とかリック・ルービンとかで流行りに飛びついた。
しかし、ジャーメイン・デュプリやDJプレミア、ピート・ロック、ジャジー・ジェフらに話を聞けば、そこは「ロック・ボックス」とラリー・スミスだろう、と言うのさ。
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