ジャマイカのコミュニティが、クール・ハークにあたえた影響

DJ Kool Herc

DJ Kool Herc
via. Netflix

「クール・ハークが登場したとき、『何かが違う』と話題になり始めたんだ。

ターンテーブルの上に置かれたファンクや、アフリカン・ビートから伝わってくるソウルは、俺にとって共感できるものだった。そう感じたのさ。」

DJディスコ・ウィズ

発明に関する歴史本「Places of Invention」より。「ブロンクス:ジャマイカのコミュニティとクール・ハーク」からの抜粋。

記事では、ジャマイカからの移民の子が「DJクール・ハーク」として登場した1970年代初頭にスポットを当て、母国ジャマイカの音楽文化がクール・ハークに与えた影響、そして、その後のヒップホップに与えた影響を分析しています。

ジャマイカのサウンドシステムとクール・ハーク

"Mutt and Jeff Hi Fi" Sound System (late 50s)

“Mutt and Jeff Hi Fi” Ken Davey’s Sound System (c.1959)
via. Alpha Boys School Radio

ジャマイカからの移民であったクール・ハークは、ジャマイカの音楽環境の中で育ち、ヒップホップ・ミュージックの誕生に大きな影響を与えました。

「ヒップホップの父」と言われるDJクール・ハーク(本名・クライブ・キャンベル)は、ジャマイカ・キングストン生まれ。幼少期にアメリカに移住しました。

キングストンの音楽メーカーの特徴の一つに、移動式のサウンドシステムがありました。木製のキャビネットに組み込まれた巨大なスピーカーは、屋外で音楽を再生するように設計されていました。

サウンドシステムによって再生される音楽は、一般的に低音とドラムが重く、遠くまで音を響かせるのに最適でした。

DJクール・ハーク以前にも、ブロンクスには大型のシステムを持つDJは存在しました。

ハークがブロンクスで、最も大きく強力なシステムを構築するために、インスピレーションを受けたもののひとつが、ジャマイカのサウンドシステムでした。

低音が重い母国のシステムを模倣して、DJクール・ハークは初期ヒップホップの特徴のひとつである「重低音を強調した巨大なサウンドシステム」を生み出しました。

(PAシステムのブランドである)シュア社製の音響機器と、ギターアンプを知人から借り、ターンテーブルから別のターンテーブルへ切り替えるスイッチには、ギターアンプを代用してミキサーとして組み込んでいきました。

Shure Vocal Master Systems

Shure Vocal Master Systems
via. soundgirls

クール・ハークはこう解説します。

「ヤツらがやっていたことは、いくつかあるチャンネルの1つに2つのターンテーブルを繋ぎ、工夫しながらパワーを引き出した。」

「俺はプリアンプのチャンネルに、複数のスピーカーのケーブルを繋いだ。そして2つのつまみを調整して両方をミックスした。だからヤツら以上の音を出すことができたのさ。」

「娯楽室のパーティー」から始まった

Community room at 1520 Sedgwick Avenue (2013)

現在の「娯楽室」
Community room at 1520 Sedgwick Avenue (2013)
via. Workforce Housing

1973年8月11日クール・ハークは、妹シンディが資金集めのために開いたパーティーでDJをつとめた。

会場はセジウィック通り1520番地にある、彼らが住むアパートの娯楽室。このパーティーは「ヒップホップの始まり」として伝承されています。

クール・ハークはレコードを回し、シンディは入り口で数セントの入場料を受けとりました。

ハークたちが開いた「娯楽室のパーティー」はその後も続きました。

そのサウンドの評判が広まるにつれ、(あまり頻繁には借りることができなかった)娯楽室を飛び出し、ハークのシステムはブロンクスの公園へと、活動の場を移すことになります。

クール・ハークのサウンドシステムはすぐに、周りのDJ達の羨望の的となりました。DJディスコ・ウィズはこう説明しています。

「おれたち、第一世代のパイオニアにとって、サウンド・システムを手に入れることが目的だった。そこを追求していたんだ。最高のアンプに最高のターンテーブル、それにぴったりなミキサーと、そびえ立つスピーカー。

みんなが、クール・ハークのサウンドシステムを真似したかったのさ。」

手頃な価格の機材が無かったので、熱心なDJ達は、中古品や借り物、安価な装置や廃品などを組み合わせるしかなかった。そうしながら彼らはそれぞれの「自分のシステム」を構築し、迫力あるサウンドを実現していきました。

DIYで自分のシステムを構築した

Tony Tone & his speaker system, Hunts Point Palace (c.1982)

Tony Tone & his speaker system, Hunts Point Palace (c.1982)
via. Joe Conzo Jr. Archive

また、コラボレーションを中心に活動していたDJの中には、シリコンバレーのアマチュア愛好家たちがコンピューターを共有していたように、資金を出し合ってサウンドシステムを構築していった人達もいました。

「最初は、低音域に特化したスピーカー2本と、ホーン・スピーカー、そしてギター・アンプから始めた。けっこう大きな音が鳴っていたよ。けれどもハークには敵わない、ハークは『本物』のサウンドシステムを持っていたからね。」

ザ・コールド・クラッシュ・ブラザーズのDJ、トニー・トーンは回想します。

「だから俺達は金を稼いだ。そして、その金で機材を買いに行ったんだ。」

「クロスオーバー・パワーアンプの存在を知ったんだ。そして、よりプロフェッショナルを目指して、15インチのスピーカーを55ガロン(約204リットル)のスチール・ドラム缶で作った。」

「それを床に寝かせて6インチの脚をつけた。低音が反射するようにスピーカーを下に向けたので、飛び出した音は、少なくとも10ブロック先まで聞こえるようになった。」

DJバロンは、このスピーカーを回想します。

「バカでかい音は鳴っていたが、単に『ゴミバケツのスピーカー』的な風変わりなものだった。」

シリコンバレー界隈の人たちが電子部品から作った「フランケンシュタイン・コンピューター」と同様に、独自のカスタムメイドで構築したサウンドシステムで、演奏するDJたちが登場していきました。

MCのルーツ「トースティング」

Coke La Rock and DJ Kool Herc

Coke La Rock and DJ Kool Herc
via. Netflix

ジャマイカの音楽のもうひとつの特徴で、クール・ハークが採用したものに、「トースティング」とよばれる様式があります。

観客の興奮を高めるために「トースター」たちは、決めゼリフを放ったり、曲のインストゥルメンタル・ブレイクに、歯切れよく叫び声をかぶせて、リズムを強調したりしました。

DJクール・ハークは、自身のプレイに「トースティング」を取り入れましたが、DJとMCを同時に行うのは困難と判断。その解決策として、コーク・ラ・ロックというMCを起用することに。

コーク・ラ・ロックは現代のラップというよりも、ジャマイカの「トースティング」に似たスタイルでMCを行いました。

インストゥルメンタル・ブレイクの上に言葉を乗せるというアイデアが生まれると、あとに続くMCたちも影響され、キャッチフレーズやおしゃべりのようなチャット・ライムを開発。ついには、曲の始まりから終わりまで綴られるポエトリーが登場します。

クールハークのサウンドシステムと、「専業」としてのMCの採用はヒップホップに明確な特徴を与えました。

そして、このスタイルに影響を受けた他のDJやMCたちによって、瞬く間にヒップホップは成長していくことになります。

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