
via. Amoeba Music
アメリカの人気レコードショップ「アメーバ・ミュージック」2017年6月6日のブログより。
サウス・ブロンクスの伝説のクラブ「ディスコ・フィーバー」創立40周年を記念して、アメーバ・ミュージックは関係の深いDJラヴバグ・スタースキーこと、ケヴィン・スミス氏にインタビューを行っています。
翌年の2018年2月8日、DJラヴバグ・スタースキーは57歳で死去。レジェンドが生前に残した貴重なインタビューです。
1970年代、まさに「ヒップホップ」という言葉を生み出したラヴバグ・スタースキー。
彼がラッパーとして初期の頃から、フリースタイルの中で使用していたフレーズです。
それはラップのレコードが登場する数年前、ヒップホップがまだニューヨークのブロンクス地区に限定された、ストリート現象にすぎなかった頃のことです。
ここで注意すべき点は「フューリアス・ファイヴのカウボーイがその言葉を作った」という説について、スタースキーは「事実と違う」と主張しています。
幼少期からの音楽好き。10歳〜12歳の頃、1970年代初頭からレコードボーイとしてキャリアをスタート。さらにヒップホップ黎明期には、ニューヨーク・ブロンクスという荒れ果てた地区で、その才能は一気に開花します。
現在、ラスベガスでDJ活動しているラヴバグ・スタースキー。
アメーバ・ミュージックは彼に電話インタビューを行い、彼自身の歴史とヒップホップの歴史、両方について語ってもらいました。
「ヒップホップという言葉を作ったのは俺だ」

Various – Hip Hop Fever (2001)
via. Discogs
あなたは「ヒップホップ」という言葉を作ったことで、文字通りヒップホップの歴史にその名を刻んだということですね?
そうだよ、「ヒップホップ」という言葉を作ったのは俺だ。言葉に詰まった時の「韻」のひとつで、よく「ヒップ、ホップ、ザ・ヒップ、ザ・ヒップ、ヒップ・ザ・ホッピング」と言っていた(笑)。
ただのナーサリー・ライム(わらべうた)。音楽に合わせたナーサリー・ライムだったんだ。神に誓って、これが真実だ。
それはヒップホップのレコードが作られる前、1970年代中頃のことですか?
ああ、レコードはまだ無かった。
俺はグランドマスター・フラッシュの最初のMCで、フューリアス・ファイヴもまだいなかった。
フラッシュは、ブロンクス・リバー・センターで小さなパーティーを開いて、俺を誘ってくれた。彼は機材の脇でDJをしていた。あの頃は誰も有名じゃなかった。DJレッド・アラーもいたし、アフリカ・イスラムやジャジー・ジェイもいた。
みんな若かったし、誰も有名じゃなかった。有名になろうなんて誰も思っていなかった。
当時のパーティーは みんな踊って楽しんでいた。携帯電話は無かったからね。

Grandmaster Flash in his kitchen, filming of “Wild Style” (c. 1982)
via. Charlie Ahearn
ラッセル・シモンズの元でプレイしていたんだ。大学生だった彼が雇った唯一のDJが俺だった。
ラッセルはパーティーを開き、稼いだ金で自分の学費を払っていた。
そんなこともあって、俺は学校に行ったことはないんだ。
神様が与えてくれた才能に恵まれたし、環境にも恵まれた。酷い目にあったこともあるが、すべてがいい思い出だ。

Lovebug Starski – You’ve Gotta Believe / Starski Live At The Disco Fever (1983)
via. Discogs
「フィーバー」レーベル時代に一番売れたレコードは、「ユー・ガッタ・ビリーヴ / アット・ザ・フィーバー」だ。
俺とラリー・スミスが作ったレコードだ。
3日間で「イッツ・ライク・ザット」と「サッカーMCs」、「ユー・ガッタ・ビリーヴ」を全部録音したんだぜ!
*「イッツ・ライク・ザット / サッカーMCs」はRun-DMCのデビューシングル

Run-D.M.C.- It’s Like That / Sucker M.C.’s (Krush Groove 1) (1983)
via. Discogs
調べて見ると分かると思うが、これらのレコードは全部同じ月に発売されたんだ。
俺とRun-D.M.C.は一緒にツアーをしたし、ラッセルは本当に俺と一緒にやりたがっていた。
でも、サル・アバティエロ(フィーバー・レコード)との関係がもつれてしまったんだ。
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「朝まで公園で演奏しても、警官が邪魔してこなかった」

G Man and Speakers at Bronx Park Jam (ca. 1980)
via. Henry Chalfant
当時の俺たちは、やっていることを理解せずに、ただ人を踊らせて幸せにしたいということだけだった。それが全てのきっかけだ。ただやりたいと思っていたことをやっていただけだ。
昔から一番に音楽が好きで、いつも合唱団やパフォーマンス・イベントに参加していた。
当時のサウスブロンクスは、いわゆる「過渡期」で最悪の時期だった。
文字通りブロンクスは燃えていた。

“The Bronx is burning” (1980)
via. Perla de Leon
俺と数人の友達は、活動の「拠点」となるところに住んでいた。
特定の場所に自分達のスピーカーを保管して、持ち出していた。
ミキサーとかそういうのはなかったんだ。
誰もそんなお金をもっていなかったから、あの時代に生まれた「最先端の芸術」を手に入れる余裕がなかったんだ。そして電柱に機材を接続して、ただ音楽を演奏していた。
みんなそれを「パーク・ジャム」と呼んでいた。

Park Jam at the Patterson Houses, the Bronx (1982)
via. Henry Chalfant
朝の4時とか5時、6時まで演奏していたんだけど、信じられないことに、警官が邪魔してこないんだ。
理由は、みんなが一か所に集まっていて、居場所を把握できたからさ。今じゃ公園で、ラジカセを大音量で鳴らすなんてできないけど、当時は今みたいな感じじゃなかったんだ。
もともとヒップホップ・ミュージックの意図するところは、群衆をパーティーに巻き込んで、みんなでハッピーになること。
「ブギ・ダウン・ブロンクス」とか「マネー・メイキン・マンハッタン」とか、「メイク・マネー・マネー、メイク・マネー・マネー」という言葉を思いついたのは俺だし、始めたのは全部俺なんだ。
そして、あのセリフ「両手をあげて、思いきり振ってみろ*」は、ラップのレコードがプレスされる何年も前から、俺がやっていたことだ。
*「両手をあげて、思いきり振ってみろ」: “Throw your hands in the air and wave them like you just don’t care”
「ラッパーズ・ディライトは、シルヴィア・ロビンソンが俺のために録音した」

Sylvia Robinson (1935 – 2011), New York City, 12th July 1973.
via. Don Paulsen /Michael Ochs /Getty Images
そもそも「ラッパーズ・ディライト」のトラックは、俺のためにシルヴィア・ロビンソンが録音したものだ。彼女は、ワンダー・マイクや、ビッグ・バンク・ハンク、マスター・ジーのために、あのトラックを録音したわけではない。
もし彼女が生きていれば、真実を話してくれただろう。
きっかけは、ハーレム・ワールドでのシルヴィア・ロビンソンの誕生日パーティーだ。
彼女は俺みたいなDJプレイを見るのは初めてだった。客の反応があんなにいいのも、彼女にはとって初めてだった。
彼女は家に帰って旦那を起こして
『赤字から脱出する方法を見つけた!』と言った。繰り返すが、当時ハーレムやブロンクスのヤツらは、経済的にヤバかったからね。
彼女は先見の明があり、ここら大勢の男連中よりも度胸があった。
つまり、連中は大金を借りて不足分を補っているにすぎなかったのさ。俺のことを、まるで息子のように接してくれた。
彼女のことは今でも好きだよ。多くのヤツらは「彼女は悪いことをした」と言うが、シルヴィアは、みんなを儲けさせてやっただけなのに!