Fab Five Freddy(ファブ・ファイブ・フレディー)

Fred Brathwaite, a.k.a. Fab Five Freddy (1980)

Fab Five Freddy (1980)
via. Bobby Grossman

ファブ・5・フレディーとして知られるフレッド・ブラスウェイトは、1959年8月31日ニューヨーク・ベッドスタイ出身のビジュアル・アーティスト。ブルックリンのグラフィティ・クルーの一員としてキャリアをスタートし、フューチュラ2000やキース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキアなどと共にアート界で成功を収めた、ヒップホップのパイオニアの一人です。

アート界で成功を収めた、ヒップホップの先駆者

"Orange Kool" (1982) - Fab 5 Freddy (Fred Brathwaite)

「Orange Kool」:ファブ・5・フレディ作(1982年)
via. Artsy

ビジュアル・アーティストで映像作家、ヒップホップの先駆者であるファブ・5・フレディー(フレッド・ブラスウェイト)は、アート界で最も早く認知されたグラフィティ・アーティストの1人です。

引用:Fab 5 Freddy (Fred Brathwaite) : Artsy / Fab 5 Freddy : Beyond The Streets / FAB 5 FREDDY: Art in the Streets / Fab 5 Freddy papers : The New York Public Library

1959年ニューヨーク生まれ、本名フレッド・ブラスウェイトは、1970年代後半からブルックリンを拠点とするグラフィティ・グループ、リー・キニョネス率いる「ファビュラス5」に10代で参加。(グループ名の「Fab 5」から)ファブ・5・フレディを名乗るようになります。

1979年にはリー・キニョネスとともに、ローマのガレリア・ラ・メデューサで展示会を開催。海外で作品を発表した最初のグラフィティ・アーティストとなり、一躍名声を手にします。

Fab 5 Freddy and Lee Quinones in Rome (1979)

ファブ・5・フレディー(左)とリー・キニョネス、ローマの展示会にて(1979年)
via. Fab 5 Freddy

ファブ・5・フレディーの最も有名なグラフィティ作品は、1979年から1980年頃にニューヨークの地下鉄に描かれた巨大なスープ缶のシリーズで、ポップアーティスト、アンディ・ウォーホルの「キャンベルのスープ缶」を引用しています。

Campbell’s Soup by Fab 5 Freddy (1981)

「ファブ・5・フレディーのキャンベルスープ」(1981年)
via. Martha Cooper

フレディとリーは(後に「Downtown 81」として公開されることとなる)ジャン・ミシェル・バスキア主演、エド・ベルトグリオ監督の映画「ニューヨーク・ビート」に出演。同年、ブロンディのヒット曲「ラプチュアー」のミュージックビデオに出演します。

Lee Quinones and Fab 5 Freddy painting on the set of the Rapture video (1981)

「ラプチュアー」のMVのセットにグラフィティを描く、リー・キニョネス(手前)とファブ・5・フレディー(1981年)
via. Charlie Ahearn

同年「マッドクラブ」で開催された伝説的ショー「Beyond Words」をフューチュラと共同企画。このショーは、グラフィティをベースとするアーティストと、ダウンタウンのアーティストが同じ場所に集まった、初期の重要な展覧会となりました。

さらに、チャーリー・エーハン監督の映画「ワイルド・スタイル」に企画・デベロッパーとして携わり、俳優として(フェイド役で)主演。

1982年、シングル「チェンジ・ザ・ビート」を発表。英語とフランス語によるラップはその後広くサンプリングされることになります。

Beside / Fab 5 Freddy / Fab 5 Freddy – Change The Beat (1982)

Beside / Fab 5 Freddy – Change The Beat (1982)
via. Discogs

その後MTVの人気ヒップホップ番組「Yo! MTV Raps」が1988年にスタートした際、番組のホストとしてファブ・5・フレディーが選ばれたのは自然なことでした。

ファブ・5・フレディーは、フューチュラ2000やキース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキアなどとともに、グラフィティが単なる流行ではなく、独自のアート・ムーブメントであることを証明しました。

また「アップタウンのヒップホップやグラフィティ・シーン」と「ダウンタウンのパンクやアート界」をつなぐ初期の重要な存在であり、ヒップホップ・ムーブメントの境界を越える存在であったファブ・5・フレディーは、アートと音楽を、新しく見慣れない文脈に位置づけることができる(さらに、メディアとも親和性の高い)スポークスマンとしての機能を果たし、活躍しました。

ブロンクス 文化大使

(L-R) Lady Pink, Fab 5 Freddy, Patti Astor : Wild Style (1983)

ファブ・5・フレディー(中央)映画「ワイルド・スタイル」のポスターより
(L-R) Lady Pink, Fab 5 Freddy, Patti Astor : Wild Style (1983)
via. Posteritati

ファブ・5・フレディは、アップタウンとダウンタウンをつなぐ重要な存在でした。この2つを結びつけたいという彼のモチベーションは、グラフィティがアート界のリスペクトを獲得することでした。

ヒップホップの歴史書「Last Night a DJ Saved My Life: The History of the Disc Jockey」より。

ラップやブレイクダンスと共に進化を遂げたグラフィティが、アート界からのリスペクトを獲得することよって、自身のグラフィティ・アーティストとしてのキャリアを発展させたいと考えました。

Fab 5 Freddy (Fred Brathwaite) at the Fun House Gallery in NYC (1982)

Fab 5 Freddy (Fred Brathwaite) at the Fun House Gallery in NYC (1982)
via. Roxanne Lowit

関連記事:ファブ・5・フレディー(フレッド・ブラスウェイト)作:タグズ / ドローイング(1984年)

1980年代初頭には、ブロンクスの「スプレー缶を手にしたピカソたち」が、地下鉄サイズの驚くべき傑作を生み始めていました。

そして、アンディ・ウォーホルの支援を受けグラフィティ・アーティストとして出発した、ジャン・ミシェル・バスキアやキース・ヘリングに対して、(アート界は)重要なアーティストとして大きな敬意を払うようになっていました。

Jean Michel Basquiat, Andy Warhol and Fab Five Freddy (1984)

(左から)ジャン・ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホル、ファブ・5・フレディー(1984年)
via. Patrick McMullan/Getty Images

画廊はこの「ストリート・アート」にすぐに飛びつき、そして、ファブ・5・フレディも、アートの世界に深く入り込んでいきました。

フレディはウォーホル創刊の雑誌「インタビュー」の編集者だったグレン・オブライエンと出会い、そして(ロックバンド)ブロンディのクリス・ステインやデビー・ハリーといった人々と出会ううちに、ブロンクスの(非公式の)文化大使となりました。

Glenn O’brien & Fab Five Freddy

グレン・オブライエン(左)がホストを務めるケーブルテレビ番組「TVパーティ」に出演するファブ・5・フレディー
Glenn O’brien & Fab Five Freddy (ca. 1979)
via. Bobby Grossman

Fab Five Freddy with Blondie's Debbie Harry and Chris Stein (ca. 1979)

(左から)ファブ・5・フレディー、ブロンディのデビー・ハリーとクリス・ステイン:撮影 アンディ・ウォーホル
Fab Five Freddy with Blondie’s Debbie Harry and Chris Stein (ca. 1979)
via. Andy Warhol

文化大使の「役割」として、フレディは新人監督チャーリー・エーハンと共に映画「ワイルド・スタイル」を制作。「ヒップホップの黎明期の世界を記録すること」に焦点を定めた映画です。

フレディは語ります。「画家になろうと真剣に考えていた。このグラフィティ・ムーブメントを、未来派やダダ(イスム)のような『真面目な』ムーブメントとして見てほしかった。フォーク・アーティストとして見られるのは嫌だったんだ。」

参照:フォークアート – Wikipedia

「完全なカルチャーであることを多くの人に知ってもらいたいと思った。何かで読んだんだ、ダンスと絵画と音楽による完全なカルチャーについて。だから、この映画で実証したかった。グラフィティは音楽とダンスが結びついた完全なカルチャーであることを。それ以前は、これらが密接に結びついているとは誰も思っていなかったんだ」

ファブ・5・フレディは、ギャラリーのイベントで、プレイするDJの手配も行なっていました。アフリカ・バンバータが、1980年からアート界隈のヒップな聴衆たちのパーティでプレイすることができたのも、フレディのおかげでした。

(L-R) Afrika Bambaataa, Fab 5 Freddy, FUTURA2000

(L-R) Afrika Bambaataa, Fab 5 Freddy, FUTURA2000
via. Martha Cooper

関連記事:アフリカ・バンバータは「ロックプール」で、パンク・ロックと出会った

ディスコグラフィ「シングル」

Beside / Fab 5 Freddy – Change The Beat (1982)

Beside / Fab 5 Freddy – Change The Beat (1982)
via. Discogs

  • Change The Beat – Beside / Fab 5 Freddy [Celluloid Records] 1982年
  • Une Sale Histoire [Disc’ AZ International] 1982年
  • Yuletide Throw Down – Blondie And Freddie [Flexipop] 1982年

ファブ・ファイブ・フレディーに関する記事

Grandmaster Flash and Fab 5 Freddy (1981)

グランドマスター・フラッシュ(左)とファブ・5・フレディー(1981年)
via. Charlie Ahearn

ファブ・5・フレディー(フレッド・ブラスウェイト)作:タグズ / ドローイング(1984年)

「アアアアアアア…フレッーシュ!」の秘密:ビーサイド/ファブ・5・フレディ「チェンジ・ザ・ビート」

「フレッシュ」は偶然の産物だった?:マイケル・バインホーン インタビュー [チェンジ・ザ・ビート]

「チェンジ・ザ・ビート」の解説:レジェンドDJ、グレッグ・ウィルソンによる

Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)

アフリカ・バンバータは「ロックプール」で、パンク・ロックと出会った

「パンク・ロック・ラップ 」:コールド・クラッシュ・ブラザーズ(1983年)

スクラッチが初めてレコードに登場した名作「ホイールズ・オブ・スティール」グランドマスター・フラッシュ:クエストラブが語るヒップホップ・クラシックの背景

Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)

Grandmaster Flowers(グランドマスター・フラワーズ)

Grandmaster Caz(グランドマスター・キャズ)

Lovebug Starski(ラヴバグ・スタースキー)

アーティスト・インデックス

タイトルとURLをコピーしました