「家族のイベント」から誕生したヒップホップ、その裏に隠された真実:クール・ハーク + シンディ・キャンベル インタビュー

DJ Kool Herc & Cindy Campbell interview

via. Rock The Bells

The Real Story Behind the Party That Birthed Hip-Hop : Rock The Bells

ヒップホップ・メディア「Rock The Bells」の特集記事より、クール・ハークと妹シンディ・キャンベルへのインタビュー。

ジャマイカ時代の思い出から、「ヒップホップの誕生日」セジウィック通り1520番地のパーティーの裏話まで、子供の頃の「家族の出来事」として答えています。

ジャマイカ時代、家ではいつも音楽が流れていた。

Kingston Jamaica (1966)

Kingston Jamaica (1966)
via. British Pathé

シンディ・キャンベル(以下シンディ):ジャマイカに住んでいたころ、私たちが通っていた学校の敷地内には、修道院がありました。シスター・アガサと一緒に過ごすのが楽しかった。

それから、祖母のひとりが蜂の巣を持っていて、ハチミツを作っていました。学校からの帰宅途中に立ち寄ると、彼女は生のハチミツが採れる蜂の巣をくれました。

クール・ハーク(以下ハーク):もう一つの思い出は「サビーナ・パーク」という場所。ヤンキー・スタジアムみたいなものだけど、クリケット場なんだ。近所の人たちが集まってピックアップ・ゲームをやっていた。

シンディ:島で暮らした子供時代は本当にいい思い出です。日曜日にはビーチで夕食を食べました。

ハーク:ジャマイカにいたころ、父からは色々な音楽を教わった。ナット・キング・コールやエラ・フィッツジェラルド、バイロン・リー&ザ・ドラゴネアーズやビング・クロスビーについて教えてくれた。

父は「ホワイト・クリスマス」のアルバム全曲を、一語一句間違えずに歌うことができたんだ。

Bing Crosby ‎– Merry Christmas (1955)

Bing Crosby ‎– Merry Christmas (1955)
via. Discogs

シンディ:パパはとても音楽好きでした。家の中ではいつも音楽が流れていました。

音響機器の新製品が出ると、父は真っ先に手に入れました。そういう意味で父は革新者でした。

近所で一番最初にテレビを持っていたのも、私たちの家でした。

ハーク:サー・コクソンは父の友人だった。ダンスホール・パーティーの準備を、見ていた記憶がある。

Clement “Sir Coxsone” Dodd

Clement “Sir Coxsone” Dodd
via. Test Pressing

ヤギカレーの匂いがした。

ダンスホールの周りはトタンで囲っていたので、すぐに場所がわかった。

シンディ:金属の板よ。お金を払わないと中が見えないように、パーティー会場の周りを囲っていたの。

ハーク:トタンが振動する音が聞こえてくる「ズズズズ、ズズズズ」

シンディ:ベースの音で。

ハーク:ベース音が鳴り出すと、猫すら中に入らない。

ブロンクスでは服を盗まれることも

1520 SEDGWICK AVE.

1520 SEDGWICK AVE.
via. WFH Group

シンディ:ジャマイカにはアパートはありません。人々は「家」に住んでいるの。たとえ何があっても一軒家に住む。

だから、ここに引っ越してきてからは、自分たちが住むところに(階段を)歩いて帰らなきゃならない生活になった。

ドアには小さな「のぞき穴」があった。ノックの音が聞こえたら家族のひとりがのぞいて、誰が来たのか確認する。

時にはノックした人が向こうから、のぞき穴を塞いでくることもありました。

パパはそれを嫌がった。

「のぞき穴付きの箱の中では暮らしていけない」と言っていました。

ハーク:あと「トイレの水が流れる」件についても忘れてはならない。あんなこと、俺たちは知らなかった。無礼な目覚め、という話だ。

シンディ:最上階に住んでいる人がトイレを流したら、下の人はみんな水が流れる音を聞くことになる。そんな音が絶えず聞こえてくるのが辛かった。竿や棒で天井を突いたりしていました。

窓から外を見ると、ゴミが落ちているし。

ジャマイカでは誰かが家に来て、洗濯物を手洗いしてくれるような生活をしていたの。でもブロンクスに引っ越してきて、自分たちで洗濯しなければならなくなった。

洗濯機や乾燥機の取り合いでけんかにもなるし、服を忘れると盗まれることもあった。「誰が人の服を盗むの!」って感じだったわ。

音楽はみんなのもの

Three Dog Night ‎– Mama Told Me (Not To Come) (1970)

Three Dog Night ‎– Mama Told Me (Not To Come) (1970)
via. Discogs

ハーク:家の中で「スリー・ドッグ・ナイト」なんかのレコードをかけていたことがあった。すると隣に住んでいたユダヤ人の女性が「あなたが聞いている音楽好きよ、そう! ほんとにいい音楽を聞いているわね」と言ってくれた。

シンディ:それと、カズン・ブルーシー

Cousin Brucie (Bruce Morrow) at WABC Radio (1966)

Cousin Brucie (Bruce Morrow) at WABC Radio (1966)
via.Phillip Harrington/Alamy

ハーク:カズン・ブルーシーやウルフマン・ジャックのラジオ番組。あと「ジュディ・イン・ディスガイズ」とかも聞いていた。

俺が言いたいのは、音楽は黒人のもの、というよりも俺たちみんなのもの、ということだ。

John Fred And His Playboy Band ‎– Judy In Disguise (With Glasses)  (1967)

John Fred And His Playboy Band ‎– Judy In Disguise (With Glasses) (1967)
via. Discogs

シンディ:そう。音楽が好きなんだから、楽しめばいいじゃない。

わたしたちがこの近所に引っ越してきたころは、それほどまだ、世の中の変化はありませんでした、ホワイト・フライトもなかったし。イタリア人やユダヤ人も大勢住んでいました。

* ホワイト・フライト:白人の郊外移住

ビルの住人でテレサっていう人がいたんだけど、彼女が最後の白人で「私は出て行かない」って言ってたわ。

でも最後には彼女の子供たちが「ママ、もうここには住めないよ、誰も遊びに来ないから」って。

グラフィティ・クルー「EX・ヴァンダルズ」とフェーズ2

EX-VANDALS tag

“EX-VANDALS”
via. Rock The Bells/Flint

ハーク:グラフィティは「EX・ヴァンダルズ」というグループから始まった。

メンバーは、スーパークール・223やロニー(フェーズ2)、それが俺の仲間だ。

俺たちはマーカーを持って操車場に隠れていた。

父はしつけに厳しい人だったので、あまり遠くには行けなかったけれど、でも俺たちは地下鉄の4系統とブロンクスの3番街高架線に「ヒット」した、地下鉄にはねられる前にね。

* ヒット(hit):グラフィティを描くこと。ボム(bomb)とも。

俺がフェーズ2と呼んでいた「ミステリオ」、彼はクールなヤツだった。

後に俺のために、いくつかのフライヤーをデザインしてくれた。

抽象的でクレイジーなフライヤーだったよ。

"The Herculords" Party at Claremont Center (1980)

“Phase 2 Flyer” Claremont Center (1980)
via. CUL

"Phase 2 Flyer" Claremont Center (1980)

“Phase 2 Flyer” Claremont Center (1980)
via. CUL

シンディ:私は「PEP 1」っていうタグ・ネームを持っていたの。

* タグ(tag):グラフィティにおける「署名」

私が「PEP 1」を名乗った理由は、名前を誰にも使われないように「最初の1人」って言う意味で。(グラフィティは)やってたけれど、バカみたいに電車とかでは、やっていなかったわ。

よく近所とか道路沿いとかで、スプレー・ペンキで描いてた。

ハーク:電車に乗っていると隣の人が「誰がこんなことやったんだ?」って、グラフィティを指さしながら言った。

「隣に座っている俺だよ」って、俺は笑いながら心の中で思ったよ。

EX-VANDALS, HERC and Phase2

“HERC” & “Phase2”
via. Rock The Bells

家族が中心となってスタートした「セジウィック通り1520番地」のパーティー

Cindy Campbell in front of 1520 Sedgwick Avenue (1970s)

Cindy Campbell in front of 1520 Sedgwick Avenue (1970s)
via. Cindy Campbell

シンディ:セジウィック・アベニューで、パーティーを開いたきっかけは、新しい服が欲しかったの。それがすべてのはじまり。
今までとは違う新鮮なもの、そして誰も持っていない素敵な服を着て新学期を迎えたかった。

ハーク:「アレクサンダーズ」というデパートがあったんだ。

自分が持っているお金を集めて、「このお金をどうやって増やせばいいんだ。もっと儲けるにはどうしたらいい?」その瞬間「バック・トゥ・スクール」というパーティーのコンセプトが浮かんだんだ。

誕生日パーティーではなく、新学期(Back to School)というアイディアだ。パーティーにはそれなりの理由とテーマが必要なのさ。

そして「どうやってこのパーティーを広めよう?」「どうやって実現しよう?」と考えた。

そこでレクリエーションルームを借りることにした。部屋を借りるのに25ドルもかかったけどね。

Community room at 1520 Sedgwick Avenue (2013)

Community room at 1520 Sedgwick Avenue (2013)
via. Workforce Housing

シンディ:レクリエーションルームは記念日や洗礼式のための部屋でした。トイレが2つありました。

ハーク:そう、ちょうどいい場所だった。

シンディ:だから私は「トイレは2つあるのね、だったら1つは男子用で、もう1つは女子用」みたいな。

ハーク:密封された空間だから、少し暑くなったらちょっと外にでればいい。廊下で涼むとか、ちょっと通りに出るとか。

シンディ:そうなると「パーティーに来た人たちが、何かを買いに行く必要があって、わざわざお店に行ってしまったら、もう二度と戻ってこない」そう思ったんです。

彼らに居てもらうには、どうしたらいいのか?

だからソーダを売ったり、ビールを売らなければならなかった。スーパーに行って買うわけにはいかないから、卸してもらうしかなかった。だから、そういうことを全部考えていったんです。

シンディ:あとは、計画のすべてを実行しなければならなかった。

大家さんのところに行ったら、(部屋のレンタル料は)25ドルだと言われ、しかも「書類にサインするには、君じゃ若すぎる。親のサインが必要だ」と言われました。

大家さんは家に書類を持って来たけど、私はパパっ子だったので、何の問題もなかった。

私がやりたいっていうことを知って、パパは喜んでくれました。私のお金だったし、サインしてくれた。パパとはデートの約束をしたわ。

それから兄(ハーク)に頼んだの「お兄ちゃんの部屋には機材が全部揃ってる、DJをやってくれない?」すると兄は「いいよ」って言ってくれた。

Kool Herc (c.1970s)

Kool Herc (c.1970s)
via. Netflix

これでわざわざDJを雇わずに済んで、経費も削減できたの。兄は友達のコークとティミー・ティム、クラーク・ケントに、これから何が始まろうとしているのかを話してくれた。

成功の方程式っていうのがあって、これさえあればっていうものがあるの。

わたしはビールが買えなかったから、パパに連れて行ってもらったわ。

「子供」だったから、当時一番強いモルトリカーを仕入れたいと思っていた。コルト45や、オールドイングリッシュ800とか。

ハーク:あとブラスモンキーも忘れないで。

Colt 45 Malt Liquor Super Six Pack (1972)

Colt 45 Malt Liquor Super Six Pack (1972)
via. National Brewing CO.

シンディ:それと招待状を出さなきゃならない。招待状は学校でもらったインデックスカードに書いたの。チラシを作る前に、カードに手書きで。

ハーク:当時の「気分」を全部カードに書き込んで宣伝した。それが招待状のテーマだった。

"Back To School Jam" First Party flyer (1973)

“Back To School Jam” First Party flyer (1973)
via. Joe Conzo

シンディ:すぐに噂が広まっていったの。

ただ、忘れてはならないのは、当時ニューヨークは破産状態だった、ということ。

ニューヨークでは毎日火事が起きていた。子供たちは何もすることがなかった。

ハーク:ホワイト・フライトも見たし、火事も見た。この目で見たのさ、すぐそこで起きたことだ。

Fifth Ave. at 110th St. E. Harlem (1970)

Fifth Ave. at 110th St. E. Harlem (1970)
via. Camilo José Vergara

シンディ:私たちの両親はロビーと建物の外にいました。私たち子供の警備員です。

さらに両親は、「うちの子供たちがちょっとしたパーティーを開いているから来ない?」と誘うと、アパートに住む何人かの親たちも集まってきました。

シンディ:「ヒップホップは始まったばかり」と人はいいます、でもそれは間違いです。ヒップホップは「家族のイベント」として始まりました。

その背景にはすべて、計画やコンセプトがありました。ヒップホップはとても「ささやかな」ものから始まったのです。

ヒップホップは、人の流血によってやりとりされたお金や、違法なお金からスタートしたものじゃない。麻薬を売って得たお金から始まったわけじゃないんです。

そのどれでもない。ヒップホップはちゃんとした土台に根付き、しっかりと構築されていった。だからこの先、そう簡単に「取り壊される」ことなどできないと信じています。

関連記事:1973年8月11日 ヒップホップ誕生!「セジウィック通り1520番地」のパーティーとは何だったのか?

タイトルとURLをコピーしました