
via. Rock The Bells
ブロンクスのストリート・ライフ、その厳しい現実から気を紛らわせるためにハウス・パーティーが始まった、という説もあります。
しかし、セジウィック通りのアパートで「バック・トゥ・スクール・ジャム」のパーティーがスタートした理由は、もっと単純なものでした。
ヒップホップ・メディア「Rock The Bells」の特集記事より。
記事は、名著「Can’t Stop Won’t Stop: A History of the Hip-Hop Generation : Jeff Chang」をベースに、クール・ハークの生い立ちへと遡ります。
関連記事:Kool Herc(クール・ハーク)
さらにハークとシンディのキャンベル兄妹へのインタビューや、ハークの相方でMCのコーク・ラ・ロック、Bボーイ第1世代のケヴィン・スミス(レジェンダリー・ツインズ)など、当時を良く知る人たちの回想を交えながら「ヒップホップの誕生日」といわれる伝説のパーティーとは何だったのかを解説しています。
幼少時代はジャズやカントリーを聞いて育つ

1520 SEDGWICK AVE.
via. Don Emmert / Getty Images
The Anatomy of the 1973 Party : Rock The Bells
ブロンクス・セジウィック通り1520番地の自宅で、「クール・ハーク」ことクライブ・キャンベルと妹シンディは、様々な音楽に囲まれて育ちました。
父親のキースは、ジャマイカで整備士の訓練を受けた後、アメリカに移住。ニューヨークのクイーンズにある産業機械メーカー「クラークス・イクイップメント・カンパニー」に就職します。
父の影響で子供たちは、ニーナ・シモンやルイ・アームストロング、ナット・キング・コール、ジム・リーブスなど、多岐にわたる音楽を聴いて育ちました。
特にハークは、自分の英語のアクセントを「アメリカ風にする」ために、リーブスのカントリー・ソングをよく歌っていた、と当時のことを覚えています。

Jim Reeves – The Best Of Jim Reeves (1964)
via. Discogs
「ジャンルにとらわれず、音楽を聴くことの価値」を教えてくれたのは父親でしたが、1960年代後半から、いっしょになって「人々を熱狂させる音楽」について教えてくれたのは、母のネッティでした。
パーティーをコントロールするのはDJ、台無しにするのもDJ
母ネッティはハークをブロンクスのハウス・パーティーに連れて行きました。
「いろんなヤツらが踊っていて、男たちは女の子に『ラップ』で話しかける。女の子の耳元で、何を男たちが囁いているのか気になるんだ」
ハークは「Can’t Stop Won’t Stop: A History of the Hip-Hop Generation
」の中で回想しています。
「俺は世間知らずだったんで、その様子をただ見ていたんだ。すると、気がついたら女の子たちが文句を言いだした」
「なぜあのレコードをかけないの?」
「どうして、あのレコードを持ってないの?」
「なぜ(あの曲を)あそこでやめちゃったの?」こういった問いが、ハークの音楽的感性を形成していきました。

Disco Fever (early 1980s)
via. Sophie Bramly
ブロンクスのクラブ「パズル」「トンネル」「ディスコ・フィーバー」などの「箱」が人でいっぱいになったとしても、最終的に会場のムードをコントロールするのは「4つ打ちディスコのリズムを扱うDJ」なのだということを、彼は身をもって理解していました。
「ジョン・ブラウンという男が『トンネル』でプレイしていたんだ」
ハークは「The Record Players : DJ Revolutionaries
」の中で回想しています。
「音楽にあわせて女の子と踊ってるんだけど、邪魔が入る。ヤツはよく『台無しに』するんだ」
「パーティー全体が『うあーーー』ってなって、一体何やってんだよ?なぜあそこで『外した』?ひでえな、今にも爆発しそうで、まさに逝っちまうところだった」
「女の子だって、こんな感じだ」
「チョーむかつく!一体何やってるの?彼のミスは本当に嫌。だってせっかくのグルーヴを台無しにしたんだから!」
ギャングの時代到来

U.Roy – U.Roy (1974)
via. Discogs
U・ロイのような人物がジャマイカ文化を形成してきたのと同じように、自分もアメリカの社会に足跡を残すにはどうしたらいいか。23歳になったハークは、そう考えていました。
しかし「ギャング」の時代が到来。音楽会場は、はるかに危険な場所になっていきました。
警察は1970年までに、ブロンクスだけで11000人のギャングが活動していると推定。
「サベージ・セブン」は、ブルックナー大通り沿いにある公団住宅「ブロンクスデール」周辺のクラブに入り込み、脈打つストロボの光に隠れていました。
年齢や性別に関係なく、サベージたちは身体に危害を加えるための準備ができていました。
やがて、サベージ・セブンは数十人にまで膨れ上がり、「ブラック・スペード」と名前を変えました。

Black Spades bronx gang (1970s)
via. Shan Nicholson
「ゲットー・ブラザーズ」のイエロー・ベンジーことベンジャミン・メレンデスや、「サベージ・スカルズの」ブラッキーことフェリペ・メルカドといったギャングの名前があるだけで、公団住宅のコミュニティ・センターに出かけるよりも家にいたほうが安全、という理由になりました。
「不良は『何かの一部』になるためにギャングに入る」とハークは語ります。「群衆の中にいないとクソみたいな奴もいる」
クラブに行けば、ナイフが人の体に突き刺さる音や、コンクリートに弾丸があたる音でベースのグルーヴ音が中断される。
そんなことを恐れずに楽しんで踊りたい人たちにとっては、新たに小規模なパーティーを開く方が、はるかに実行可能な選択肢となりました。

The Savage Skulls (1970s)
via. Lisa Kahane
「俺のサウンド・システムには触るな」

Shure Speaker Column VA 300-S (1979)
via. Shure Brothers
キース・キャンベルは子供たちと「音楽への愛」を共有していましたが、キャンベル家には「鉄則」がひとつありました。
それは、彼が大切にしている「シュア製のサウンド・システム」には誰も触るなと。特にハークは絶対に触るな、という決まりでした。
例えるならば、ウィリー・ウォンカが子供たちに「美味しいチョコレートを禁止」しているのと、同じようなシナリオを想像できます。
* ウィリー・ウォンカ:映画「夢のチョコレート工場」や「チャーリーとチョコレート工場」に登場する架空の人物。
このルールは、自分の息子を信じていないと暗に言っているようなもの。そして実際、ハークは傷つきました。
キースは、あるリズム&ブルース・グループの音響を担当をしていましたが、「ライブの合間にレコードをかけてみないか」とハークに演奏の場を提案。しかしハークは最終的にそれを拒否してしまいました。
ハークは回想します。
「俺の部屋に大きな柱状のスピーカーが置いてあったんだけど、親父は『触るな、ドルフィーさんのを借りてこい』って言うんだ」
* ドルフィーさん:父キース・キャンベルの友人
父のシステムを内緒でカスタマイズした結果

Shure Speaker Column VA 300-s (1978)
via. Shure brothers inc.
すべての親がそうであるように、家の中で何かをタブーにすると「炎に集まる蛾」のように、子供たちはそれに引き寄せられていくものです。
ハークは、父親が大切にしていたスピーカーを使って実験を始めました。
そんな中、同じビルに住んでいる別の家族が、同じオーディオ機器を所有していることに気がつきます。しかし、自分たちのものよりも音が強力で、より「多めに電力を得ている」ように見えました。
どうやったら、そのパワーを引き出すことができるのか、手がかりをいくら聞いても、ご近所さんは「企業秘密」を教えてくれません。
幼少時代から、歴史あるジャマイカのサウンド・システム文化や、いくつもの音響メーカーがある環境に育ち、青年時代には自分のオーディオ機器を使って実験をしていたハーク。
試行錯誤を重ねた結果、スピーカーの配線の一つを取ってジャックを付け、それをチャンネルの一つに接続すれば、スピーカーの予備電源を利用できることを発見しました。
「これでプリアンプからコントロールできるようになった」
「ボガート製のアンプ2台とガラードのターンテーブルを2台使い、チャンネルのつまみをミキサーとして使ったんだ」

Garrard Turntable Model 301 (1958)
via. Garrard
「ヘッドフォンは使っていない。このシステムでは8つのマイクを使うことができた」
「ひとつのマイクにはエコー・チェンバーをつなぎ、もうひとつのマイクは直につないだ。そうすることで普通に話せるし、同時にエコーもかけられた」
自分のシステムを改造しているハークに気づくと、父キースは怒りました。しかし、その「音」を聞いた結果、これはイケるかもしれないという確信に変わりました。
すぐに彼らは、父と息子が始めるビジネスのために「Father and Son」と印刷された名刺を作成。
父が担当するR&Bバンドのライブの合間に、ハークはレコードを演奏し始めました。
新学期(back-to-school)に向けて新しい服が欲しいので、パーティー開いてみた

“Back To School Jam” First Party flyer (1973)
via. Joe Conzo
ブロンクスのストリート・ライフ、その厳しい現実から気を紛らわせるためにハウス・パーティーが始まった、という説もあります。
しかし、セジウィック通りのアパートで「バック・トゥ・スクール・ジャム」のパーティーがスタートした理由は、もっと単純なものでした。
シンディ・キャンベルは当時、ユース・コープの仕事をしていましたが、彼女が欲しい服を、買えるほどの給料ではありませんでした。
ではお金を稼ごうと、入場料:女の子は25セント、男の子は50セントのパーティーを発案。
飲食代はソーダが50セント、ホットドッグが75セント、オールド・イングリッシュと、コルト45モルトリカーを1ドルに設定しました。

Cindy Campbell in front of 1520 Sedgwick Avenue (1970s)
via. Cindy Campbell
シンディ・キャンベルは回想します。
「私は新学期のために、お金を節約していたの」
「フォーダム・ロードじゃなくて、デランシー・ストリートに行くと、みんなが持っていない、最新のものが手に入るの」
「誰も持っていないものを着て、爽やかな感じで新学期を迎えたいじゃない」
「当時、ネイバーフッド・ユース・コープの給料が週45ドルだった。それでどうやって欲しいものが買えるって言うの?っていうか、それじゃ足りないじゃない!」
ヤンキー・スタジアムから北へ2マイル、クロス・ブロンクス高速道路がマンハッタンへと伸びる、手前あたりにあるアパートにキャンベル家は住んでいました。
15階建てのレンガ造りの建物で、小さな遊び場が2つ。アパートの内装はリノリウムの床、スチール製のラジエーター、蛍光灯の照明器具が付いた、低くて白いタイルの天井が特徴的でした。
アパートには娯楽室があり、使用量は25ドルでした。

Community room at 1520 Sedgwick Avenue (2013)
via. Workforce Housing
大音量の音楽、音に圧倒されたクール・ハークのパーティー
兄のキースと共に結成した先駆的なBボーイ・グループ「レジェンダリー・ツインズ」の片割れ、ケヴィン・スミスは、「Hip-Hop: The Complete Archives
」の中で、ハークのパーティーの雰囲気を回想しています。
「初めてハークのパーティーに行ったのは12歳の時だった」
「兄のキースと俺は、165ストリート&ユニバーシティ・アベニュー周辺の女の子たちとよく遊んでいた」
「すると彼女たちは『ハークのパーティーには行った方がいいよ!』って言うんだ。『パーティーで彼は、毎週ジャムしてるんだから!』ってね」

“Party” (Hip-Hop Evolution)
via. Netflix
「ある夜、俺たちはパーティーを見に行くことにした。一番覚えているのは大音量の音楽だ。音に圧倒された。会場は満員で本当に汗びっしょりだった」
「ハークはマイクを通じて『ロック・ザ・ハウス』みたいなことを言って、パーティーに来ていたヤツらの名前を呼んでいくんだ」
「ウォレス、ディー、ジョニー・クール、チャビー、アメイジング・ボボ、ジェームス・ボーン、ササ、クラーク・ケント、トリクシー…。そんな名前が聞こたものさ」
「トリクシーってヤツは大きなアフロをしていて、よく首を振っていた。それが超カッコよかった!ウォレスは『スリングショット』という技を持っていた。
そんなパーティーを経験してしまったら、もう他の場所には興味がなくなってしまったのさ」

“Kool Herc at the Party” (Hip-Hop Evolution)
via. Netflix
最初のパーティーで、ハークは過去のレゲエからレコードをスタート。しかし観客には響かず、評判は良くありませんでした。
すると彼は、往年の隠れた名曲を披露していきました。
たとえば、
- ザ・ジミー・キャスター・バンチの「イッツ・ジャスト・ビガン」
- ザ・インクレディブル・ボンゴ・バンドの「ボンゴ・ロック」と「アパッチ」
- ベーブ・ルースの「ザ・メキシカン」
- レア・アースの「ゲット・レディ」
- ベイビー・ヒューイの「リッスン・トゥ・ミー」
- アイズレー・ブラザーズの「ゲット・イントゥ・サムシング」
- イエロー・サンシャインの「イエロー・サンシャイン」
そして秘密兵器は、ゴッドファーザー・オブ・ソウルからのチョイスです。

James Brown – Give It Up Or Turnit A Loose (1969)
via. Discogs
「当時誰も持っていなかった俺の勝負レコードは、ジェームス・ブラウンの『ギブ・イット・アップ・オア・ターニット・ア・ルーズ』だった」と、ハークは語ります。
「コーク・ラ・ロックが、熱狂の渦に巻き込むぜ」
明らかに会場内のエネルギーが高まってきたところで、キャンベル兄妹の友人マイクは、ハークの合図で蛍光灯をつけたり消したりし始めました。
レコードの「ブレイク」だけを強調するハークの腕前と、(2枚の同じレコードを使い、ビートをぴったり合わせ、1つの連続ループを形成する)彼の先駆的なテクニック「メリーゴーランド」によって、小さなレクリエーション・ルームは、互いに体がぶつかり合う中で「汗だくの箱」になっていきました。
チョコレートミルク「Coco」が大好きなことに由来するもう一人の友人、コーク・ラ・ロックはちょっとしたジャマイカの「トースティング」の様式を取り入れ、雰囲気を盛り上げました。

Coke La Rock and DJ Kool Herc
via. Netflix
ラ・ロックはブロンクス生まれ。パーティーに参加する前から、ジェームス・ブラウンのような俊敏なダンスで評判を呼んでいました。
彼とハークはティーンエイジャーの頃に友達になり、一緒に「ナイト・センター」に通っていました。
「ナイトセンター」とは、高学年のための放課後プログラム。街をぶらぶらする代わりに、バスケットボールやビリヤードをして遊びました。
パーティーが始まったその瞬間、エコーチャンバーを使ったラ・ロックの歌唱力は人々に強い印象を与えました。
「俺はただ、友達の名前を呼んでいただけだった」ラ・ロックはジャーナリストのスティーヴン・ヘイガーに語っています。
「『勝てない相手などいないし、乗りこなせない馬などいない。誰も止められない雄牛は俺が止めてやる。俺、コーク・ラ・ロックは、どんなディスコでも熱狂の渦に巻き込むぜ』みたいな、最初はこんな感じだった」
みんなが踊っている部屋でハークがレコードをかけている間、別の部屋でひとり、マイクを握っていたのがラ・ロック。彼のスタイルはまさに「MC界のオズの魔法使い」といった感じでした。
翌日、パーティーの評判は街中に響き渡りました。
多くの若者たちがパーティーを開いてきたように、クライブとシンディ・キャンベルは単に「バック・トゥ・スクール・パーティー」を開いただけだでした。
しかし、大きく違ったのは、画期的なテクニックで群衆を感動させる能力と、両親とパーティーに参加して得た経験をいかして、ハークは発想を根本から変えた、それが1973年8月11日のパーティーでした。
ハークは語ります。
「ターンテーブルの裏がダンスフロア、くらいな態度でやっていた」
参考資料:Can’t Stop Won’t Stop: A History of the Hip-Hop Generation : Jeff Chang
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