DJ Hollywood(DJ ハリウッド)

DJ Hollywood

DJ Hollywood
via. cuepoint

1970年代初頭から80年代にかけ、ヒップホップ黎明期に登場した最初期のDJでありラッパーの草分け。

クール・ハークと同様に、当時のライブ音源はほぼ残っておらず、初期の活動は当時のライブを見た人の記憶の中にしかないために、非常に過小評価されているレジェンドのひとりです。

アポロ劇場にターンテーブルを持ち込んだディスコ時代の元祖DJ

“Adult Disco Extravaganza” Co-op city (1979)

「アポロ・シアター出演中のニューヨークNo.1ディスクジョッキー、DJハリウッド」
1979年1月27日にブロンクス・コープシティで行われたパーティー「アダルトなディスコの祭典(Adult Disco Extravaganza)」のフライヤー
via. CUL

DJ Hollywood(DJ ハリウッド)

活動期間:1970年代 – 1990年代
生年月日:1954年12月10日
出身地:ニューヨーク市
本名:Anthony Holloway(アンソニー・ホロウェイ)

DJ Hollywood Biography by Steve Kurutz : AllMusic

ヒップホップの本質である「録音済みの音楽(レコード)に乗せて大量の韻を踏む」という手法を生み出したDJハリウッドは初期のMCのひとり。

しかしその活動拠点がマンハッタンであり、使用したレコードの種類がディスコであったこと、客層もダウンタウンのハスラー達だったことから、DJハリウッドはヒップホップの発展に貢献した人物でありながら過小評価されています。

14歳のときにボーカルグループを結成し、1971年にはチャールズ・ギャラリーなどハーレムのクラブでDJとして活動を開始。

ディスコムーブメントが盛り上がる中、クラブのオーナーから学んだレコード・ミキシングのテクニックを駆使して、レコードの中から最もファンキーな部分、最も踊れる部分を抽出。このプレーにより多くのファンを獲得します。

さらに、アポロ劇場でのDJハリウッドのパフォーマンスは、カーティス・ブロウやファットバック・バンドなど多くの若手アーティストに影響を与えています。

1980年代半ばまでトップDJとして君臨していたDJハリウッドは、薬物中毒と闘いながらラップの世界から姿を消すことに。

しかし、1990年代初頭にはラヴバグ・スタースキーとのコンビでシーンに復帰。ニューヨークやニュージャージーを中心にショーを開始しています。

関連記事:「ヒップホップという言葉を作ったのは俺だ」:ラヴバグ・スタースキー インタビュー

14歳でハーレムデビュー。「ブラック・モーゼス」の衝撃

1970年代初期、ハーレムのクラブシーンの先駆者であるハーレム出身のDJハリウッドは、「自分でレコードをかけ、それに乗せて喋りまくる」ことで、(当時人気のMC)KC・プリンス・オブ・ソウルよりも有名になっていました。

ヒップホップの歴史書「Break Beats in the Bronx: Rediscovering Hip-Hop’s Early Years」より。

DJハリウッド(以下ハリウッド)は1971年、14歳のときに家を出ます。母親が決めたルールすべてに納得がいかなかったからです。若きハリウッドはハーレムの営業後のクラブを寝床に、クラブの常連客の使い走りをすることで経済的に自立しました。

定期的に開かれていたパーティーで、彼は「WT」というDJに夢中になりました。

「『WT』は2つのターンテーブルとマイクミキサーを持っていた。ミキサーにキューイング(オンオフのスイッチ)は無かった。

彼はレコードとレコードの合間、曲が終わって次の曲が始まる間にトークする。俺は彼の話しぶりがとても好きだった。」

毎晩のようにWTのプレイを聴きながらハリウッドは、DJのように観客を動かす自分を想像していました。そして勇気を出して挑戦してみることに。

ネットワークを通じてハリウッドはいくつかの仕事を確保しましたが、当初は目立つスキルに欠けていました。しかし、パーティーでの演奏を重ねるうちに、良き指導者となる大勢の経験豊富なDJたちと出会っていきます。

例えば、Boojangles(ブージャングルズ)というDJは、ハリウッドの音楽的な嗜好を開拓し、ミックスの仕方を教えてくれました。

「彼はソウルやディスコの曲をかけていた。例えば、エディ・フロイドの『ノック・オン・ウッド』ブッカー・T & ザ・MG’sの『メルティング・ポット』や、ジョニー・テイラーの『フーズ・メイキング・ラブ』みたいなやつだ。」

しかし、ハリウッドが最も興味を持ったのは、彼のDJテクニックではなく、彼がレコードに合わせトークすることでした。ハリウッドはこう語ります。

「俺は、DJになる前は歌手だった。俺にはレコードをかけながらトークする才能があった。俺がやる前は、みんなただ『アナウンス』しているだけだった。俺には『声』があったからね。

フランキー・クロッカーがトラック(曲)に乗せてトークする感じが好きだった。ただ彼のはシンコペーションしないんだ。ハンク・スペインも好きだったけれど。当時のヤツらは、(トークが)音楽的であることに関心がなかったのさ。

俺はレコードに合わせてフロウしたかった。シンガーとしてはそうするのが当たり前だからね。曲中のどこから始めて、どこでやめるかのタイミングは、自然に意識していたのだと思う。」

ハリウッドの名が知られるようになったのは、彼が期待していたとおり、DJの腕前よりも声の良さが評価されたからです。彼のパーティーは満員だったので、DJセットを録音して販売を始めました。

「8トラックのテープに録音して一本12ドルくらいで売った。床屋やレストランなど、金を持っているブラザー達がいるところならどこへでも行って、テープを売って回ったんだ。」

このテープのおかげで、彼の名前はさらに急速に広まっていきました。1972年には、お金に余裕のある人たちが200ドルも払ってテープを買うようになり、彼はハーレムのDJとしての地位を確立していくことになります。

初期フォロワーとしてハリウッドから影響を受け、後にラッパーとして初めてメジャーレーベルと契約を結ぶこととなるカーティス・ブロウは、当時のハリウッドの名声を次のように語っています。

DJ Hollywood and Kurtis Blow (1980)

DJ Hollywood and Kurtis Blow (1980)
via. kurtblow.com

「ハリウッドは当時ニューヨークの『全てを網羅』していたから、どこでも好きなところでプレイすることができた。そして黄金の声の持ち主だった。ハリウッドの声はまろやかで豊か、歌手のような声色を持っていた。

彼の歌にはこんな決まり文句があった。

『心と体と魂をゆったりとさせるために、賢者の言葉を手に入れた。
真新しいリズムに乗って、それをコントロールしていくんだ。さあみんな始めようぜ』*

* “Got a word from the wise, just to tranquilize, your mind your body and soul. We got a brand new rhythm now, and we’re gonna let it take control. Come on y’all let’s do it. Let’s do it.”

それがハリウッドだ。観客の反応に長けていたということもあるが、まず彼の『声』だ。ハリウッドの声は金色に輝いていて、まるで神のようだった。それを見て俺はMCになりたいと思った。」

ヒップホップの歴史家マーク・スキルズとの対談で、ハリウッドは彼のライムのスキルがどのように進化したかを説明しています。

「1975年のある日、自宅にいた俺はレコードをかけるために一枚のアルバムを取り出した。それが『ブラック・モーゼス』だった。当時はまだ人気がなかった。

このアルバムの中の一曲、『グッド・ラブ69969』という曲をかけたんだ。アイザック・ヘイズはこんな感じで歌っている。

『俺の名は世界中のイエローページに載ってる
俺の30年間は、若くて可愛い女の子たちとの生活さ』*

* “I’m listed in the yellow pages, all around the would; I got 30 years experience in living sweet young girls.”

Isaac Hayes – Black Moses (1971)

Isaac Hayes – Black Moses (1971)
via. Discogs

衝撃だった。このレコードを聞くまでの俺のライムは童謡みたいなものだった。

このレコードをきっかけに俺はライムを始めた。しかもただ韻を踏むだけじゃなく、その場のライブ感も言葉にしていった。これがズバ抜けていた。

頭の中で『彼がやっていることと、これを一緒にしたらどうなる? 何が出来上がる?』と考えていたのさ。

こうして俺は名声を得た。想像する以上に有名になったんだ。

誰もがその韻を踏み始めた。ジャムに参加すると、みんながそのライムを口にするんだ。でも誰も、誰一人として、そのライムの由来を知らない。これには驚いたよ。

ブロンクス、クラブ「371」とラッセル・シモンズ

via. Ego Trip’s Book of Rap Lists

via. Ego Trip’s Book of Rap Lists

ハリウッドはピートDJジョーンズと同様に、ディスコDJとしてマンハッタンのミッドタウンのクラブで演奏を始め、ブロンクスに登場し人気を博していた。

彼もまた、ジョニー・サンダーバードの影響を受け、学んだひとりだ。

1970年代のヒップホップ黎明期を良く知るクールDJレッド・アラートは、ヒップホップ系ディスクガイド「Ego Trip’s Book of Rap Lists」のインタビューで、絶対外してはならないオールドスクールDJのひとりとしてハリウッドの名前を挙げています。

当時のシーンには、故ジューンバグや、俺の仲間のレジー・ウェルズ、そしてエディ・チーバなどがいた。彼らのヒップホップは、ディスコ・ファンに向けられたもので、ブロンクスのウェブスター・アベニューにあった「371」というクラブで演奏していた。

一方、フラッシュやバム、Lブラザーズは(コミュニティ)センターやホールにいる若い奴らに向けてプレイしていた。ヒップホップといっても観客の層はさまざまだった。

当時、シティカレッジに通いながらプロモーターをしていたラッセル・シモンズなんかは、371クルーたちがやっていたことを評価していた。噂を聞きつけると、ラッセルは彼らをダウンタウンに連れていき、ホテル・ディプロマットなどのクラブや大きなスポーツ・イベントに出演させるようになった。

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Hip Hop in America: A Regional Guide

ディスコグラフィ「シングル」

D.J. Hollywood – Shock, Shock, The House (1980)

D.J. Hollywood – Shock, Shock, The House (1980)
via. Discogs

  • Shock, Shock, The House [Epic] 1980年

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