
Disco King Mario
via. UMC
幼少の頃ニューヨークに移り住み、低所得者用の公共団地「ブロンクスデイル・ハウス」界隈を拠点に活躍したヒップホップ黎明期のDJです。
ブロンクスデイルで活躍した、もうひとりの知られざるレジェンド

DJ勢力図(1970年代ブロンクス)
via. UMC
ヒップホップにおける「三位一体」は、ハーク、バンバータ、フラッシュに加え、DJマリオを追加するため拡大すべきです。
覚えておいてほしいのは、マリオはヒップホップを屋外で演奏した最初の人であるということ。そしてヒップホップ・パーティーの主催者でもあったことです。
バンバータやセオドア、ジャジー・ジェイなどのDJたちは、マリオのライブでプレイした後に自分たちのスタイルを確立していきました。
ヒップホップ文化の起源について研究する、歴史家ダマーニ・サンダーソンの論文によると、DJディスコ・キング・マリオこそ、ヒップホップのレジェンドとして絶対に忘れてはならない存在である、と力説しています。
ピートDJジョーンズはブロンクスのDJたちに大きな影響を与えました。そして、彼から影響を受けたDJの一人がDJマリオです。
ディスコ人気が高まると「ディスコ・キング」と呼ばれるようになりました。
あらゆる情報源によると、マリオはサウスブロンクス、正確にはブロンクスデイル・ハウスで最初のDJの一人でした。DJテックスやDJスパンキーなど他にもDJはいましたが、マリオほどの成功者はいませんでした。
マリオと彼の兄、DJブギーマンたちは1970年代初頭にDJを開始しています。

Welcome to Bronxdale Houses
via.Getty
DJブギーマンのインタビューよると、ノースカロライナを離れる前から自分はDJをしていたと。そして、そこで初めてターンテーブル2台でプレイしているDJを見たと語っています。
「じゃあヒップホップを始めたのは彼らですか?」との問いに、「俺たちはヒップホップの始まりの一端を担っていたんだ。もし俺たちがいなかったら、ヒップホップはここまで発展していなかっただろう」と、DJブギーマンは答えています。

「ブラック・スペード」時代のディスコ・キング・マリオ
Disco King Mario was an original member of the Black Spades (1970s)
via. UMC
DJマリオは、ブロンクスのストリート・ギャング「ブラック・スペード」の初期メンバーでした。
ブラック・スペードの多くのメンバーがそうであったように、武闘派であったマリオはストリートの若者から一目置かれる存在でした。
ギャングとしてのステータスは、彼を危険から守り、彼が屋外で演奏するのに十分なほどの影響力を与えました。マリオはそうした最初の人物でした。
また、DJマリオがクールDJディーの1年ほど前から、この界隈に登場していたことも、DJブギーマンのインタビューから分かっています。
クールDJディーがブラック・スペードに加入した時、創設メンバーであったファット・マイクと戦うことが、チーム加入のための「儀式」でした。そして、そのイニシエーションに同意(賛成)したブラザー(仲間)の一人が、マリオでした。
他のDJ達が登場しては消えていく中、マリオはズールー・ネイションの台頭まで人気を維持しました。
コリー・ロックによると、当時のDJマリオはヒップホップにおけるプロデューサーのような存在で、後にズールー・ネーションの一員となる多くのDJを育成していきました。

観客の前でポーズを決めるオルマイティ・ケイ・ジー(コールド・クラッシュ・ブラザーズ)と、ステージを見つめるディスコ・キング・マリオ(右)
Almighty Kay Gee & Disco King Mario at the Kips Bay Boys Club (ca. 1980-1981)
via. CUL
例えば、自分のシステムをバンバータに使わせて、初めてのDJをさせたのも、DJマリオでした。
さらに、キャズやセオドア、ジャジー・ジェイなどのDJたちは、DJマリオとの活動からキャリアを開始しました。
マリオがなぜ、そんなポジションであったのか。
ブロンクスデイルのプロジェクトでパーティーを開く場合、メイン会場であった学校、特に「123中学校」にマリオは「コネ」があり、利用する「権限」を持っていました。
この界隈の学校で演奏したければ、誰でもマリオを通さなければなりませんでした。

「123中学校」
The James M. Kieran School (J.H.S. 123)
Via.The Institute for Family Health
マリオはパイオニアDJの一人だと思っている。
ヒップホップ・メディア「Ego Trip」によるディスクガイド「Ego Trip’s Book of Rap Lists」に掲載されたクールDJレッド・アラートのインタビューより。
クール・ハークやアフリカ・バンバータと同時代に活躍したDJのパイオニアとして、ディスコ・キング・マリオに敬意を表しています。
クール・ハークはみんなから尊敬されていた。自分のサウンドシステムを持っていたんだ。
当時、メジャーなアンプは「マッキントッシュ」というメーカーのものだった。マッキントッシュを持っていたなら、超尊敬されたものさ。
スピーカーやターンテーブルなど、どうでもよかった。みんなが欲しかったのは、まさしくマッキントッシュのアンプだった。
当時そのアンプを持っていたのは2人だけ。
クール・ハークと、後に俺の仲間になる、ディスコ・キング・マリオだ。
(マリオよ、安らかに眠れ)
マリオはパイオニアDJの一人だと思っている。
奇妙なことに、ディスコ・キング・マリオとバム(アフリカ・バンバータ)は、ブロンクスのサウンドビュー地区の同じ場所でライブをよくやっていた。
「123中学校」の体育館は、大きな仕切りで片側ともう片側を分けていたんだ。
そこで、マリオとバムは同時にプレイしていた。
ディスコ・キング・マリオにはサウンド・システムがあった。
バムにはたくさんのレコードがあって、MCたちがいた。
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Disco King Mario at Park Jam (ca.1970s)
via. UMC