Charlie Chase(チャーリー・チェイス)

Charlie Chase of the Cold Crush Brothers (1981)

Charlie Chase of the Cold Crush Brothers (1981)
via. Joe Conzo

DJチャーリー・チェイスのステージネームで知られるカルロス・マンデスは、1959年1月16日ブロンクス生まれ。トニー・トーンやグランドマスター・キャズ、JDL、イージーAD、オールマイティ・ケイ・ジーとともに、コールドクラッシュ・ブラザーズの創設メンバーとして活躍しました。

ヒップホップ史上初のラティーノDJ

Afrika Bambaataa and Charlie Chase at the Kips Bay Boys Club (1981)

アフリカ・バンバータとチャーリー・チェイス(1981年)
via. Joe Conzo

チャーリー・チェイスは初のラティーノDJとして公に登場し、ヒップホップ界の大衆にラティーノの存在を浸透させました。

DJ Charlie Chase : coldcrushbrothers.com (archive)

ニューヨーク生まれのチャーリー・チェイスは、12歳までブルックリンのウィリアムズバーグで育ち、その後ブロンクスに。1975年にはミュージシャンとして、またヒップホップの真のパイオニアとして活躍するようになります。

当時はプエルトリコ人のDJがヒップホップ・ミュージックをプレイすることに対して、黒人やヒスパニック系住民から多くの批判を受けました。しかしニューヨークのストリートや公園、クラブ、学校などで、チャーリーが多くの先駆者たち、クール・ハークやアフリカ・バンバータ、グランド・ウィザード・セオドア、グランドマスター・フラッシュなどとプレイしていくうちに、注目を集める存在となっていきます。

Hip Hop Party Flyer (T-Connection, Dec. 5, 1980)

クール・ハーク、アフリカ・バンバータと共演
(1980年12月5日、T・コネクション)
via. CUL

Hip Hop Party Flyer (Ecstasy Garage, June. 21, 1980)

グランドマスター・フラッシュと共演
(1980年6月21日、エクスタシー・ガレージ)
via. CUL

ヒップホップやサルサやR&B、ハウスやディスコやロックなど、あらゆるジャンルをプレイ。どんな場所でもラティーノを代表して大衆を楽しませ、DJとして尊敬を集める一方、彼は音楽に没頭していきます。

その後、パートナーのトニー・トーンと共に「ワールド・フェイマス・コールド・クラッシュ・ブラザーズ」を結成。グランドマスター・キャズ、ハット・メイカー・JDL、オールマイティ・KG、イージーADが参加。今日に至るまでコールド・クラッシュは、多くのヒップホップDJやMC、ラッパーたちが模倣するほどの、影響力のあるグループのひとつとなりました。

The Cold Crush Brothers on Prospect Avenue, in the South Bronx, in 1981

コールドクラッシュ・ブラザーズ
(手前から)チャーリー・チェイス、トニー・トーン、グランドマスター・キャズ、JDL、イージーAD、オールマイティ・ケイ・ジー
via Joe Conzo

1981年、映画に初出演。史上初のヒップホップ映画でチャーリー・チェイスとして自分自身を演じています。カルトな人気を博した映画のタイトルは「ワイルドスタイル」。映画の端役を得て、劇中で自身のグループ「コールド・クラッシュ・ブラザーズ」とのパフォーマンス・シーンによって、彼の才能を世に知らしめ、ブレイクするきっかけとなりました。

ツアーでは日本、ドイツ、イタリア、イギリス、スイス、その他多くの国々に衝撃を与え、ロキシー、スタジオ54、ローズランドなど有名クラブや、マディソン・スクエア・ガーデンなどアリーナでの演奏を成功させています。

全てのビートをキープする、コールド・クラッシュのショーDJ

Charlie Chase & Tony Tone (1980)

チャーリー・チェイス(左)とトニー・トーン
via. Joe Conzo

チャーリー・チェイスとトニー・トーンと、最初のMCは誰だったのか覚えていない。でも最終的にはこの2人をDJに、コールド・クラッシュ・ブラザーズが結成された。

こう語るのは、当時のチャーリー・チェイスをよく知るDJレッド・アラート。 ヒップホップ・メディア「Ego Trip」によるディスクガイド「Ego Trip’s Book of Rap Lists」より。

トニー・トーンはいつもチェイスの横にいた。トニーは演奏はできたが、それほど演奏はしていなかった。

チェイスはパーティーを制御不能にすることはなかった、しかし、それはコールド・クラッシュのショーDJであるがゆえだ。全てのビートをキープし、拍子をキープ。みんなが踏むステップや動きを常にキープしていた。

Cold Crush Brothers at the Dixie Club, Wild Style filming (1981)

映画「ワイルド・スタイル」のコールド・クラッシュ・ブラザーズ(1981年)
DJはチャーリー・チェイス。その左隣にはトニー・トーンの姿が。
via. Joe Conzo

関連記事:絶対に外せない! オールドスクールDJ 16人:DJレッド・アラートが選ぶ

イースト・ハーレム出身、ベーシストとしてキャリアをスタート

SPANISH HARLEM, NEW YORK 1950s Martin Harris

1950年代のニューヨーク、イースト・ハーレム
via. Martin Harris

チャーリー・チェイスは自らを「ニューヨークでナンバーワンのプエルトリコ人DJ」と呼びます。彼が言う「ナンバーワン」とは、「最高のDJ」だけでなく「最初のDJ」を意味します。

「俺がラップ(ミュージック)を始めたときには、ヒスパニック系のヤツは誰もやっていなかった。もしいたとしても俺は知らない。とにかく、ヒスパニック系のDJとして人気が出たのは俺が初めてだった」

ヒップホップの歴史書「That’s the Joint!: The Hip-Hop Studies Reader: Murray Forman」より、チャーリー・チェイスのインタビューを含む記事。

1950年代にエル・バリオ(イースト・ハーレム)生まれたチャーリーは、家族と引越しを繰り返し、プエルトリコ人や黒人の住む地域を転々としていました。チャーリーの両親はプエルトリコのマヤグエス出身。家族で島を訪れることは稀でしたが、プエルトリカンという背景は、彼の生い立ちに大きな影響を与え続けます。

Tito Puente – El Rey Bravo (1962)

Tito Puente – El Rey Bravo (1962)
via. Discogs

「俺はいつも母のレコードを聴いていた。ラテン系のレコードは全部母が買ったものだ。ティト・プエンテを買ったのも母。彼女はトリオ・ロス・コンデスに夢中だった。音楽家の家系なんだ。祖父は作家であり音楽家でもあった。バンドで演奏していた。父親もそうで、トリオで演奏してた。だから俺は彼らの足跡をたどってきたようなものだ。

ただ、俺が10歳のときに父は家を出て行ったので、父から音楽を学ぶことはなかった。しかし血筋なのだろう、何かのきっかけでギターを少し覚え、習いたいと思うようになったんだ」

チャーリーは、彼のキャリアがラップやDJからのスタートではないと明言します。

「俺はベース奏者だ。スパニッシュ・バラードを演奏するバンドやメレンゲのバンド、サルサ・バンド、ロック・バンド、ファンク・バンド、ラテン・ロックのバンドで演奏していた。

ジョニー・ベントゥーラ、ジョニー・パチェーコ、ロス・イホス・デル・レイ、ティト・プエンテといった最高のミュージシャンと共演した。グループ名はロス・ジラムンドスだった」

「音楽が好きだったんだ。俺は、WABC(ラジオ局)のカズン・ブルーシーやチャック・レナードなどの番組を聴いて育った。いつも音楽に夢中だった。学校でもいつもラジオをつけていた。ラジオは俺の人生に常に大きな影響を与え、俺はミュージシャンになった。バンドで演奏するようになり、数年後にはDJをやるようになった。その後バンドよりもDJの方が儲かるようになっていった」

グランドマスター・フラッシュに追いつきたい

Charlie Chase of the Cold Crush Brothers at Norman Thomas High School (ca. 1981)

Charlie Chase of the Cold Crush Brothers
at Norman Thomas High School (ca. 1981)
via. Joe Conzo

「チャーリーはカルロスのニックネームだ。そしてチェイスを名乗ったきっかけは、グランドマスター・フラッシュなんだ」

ヒップホップの歴史書「That’s the Joint!: The Hip-Hop Studies Reader: Murray Forman」より、チャーリー・チェイスのインタビュー。

「フラッシュは俺の友人で、フラッシュがカッティングやその他もろもろをやっているのを初めて見て、ああ、これなら俺にもできるって思った。当時、俺もDJをやっていたけれど、スクラッチとかはやっていなかったが、これならできる。俺はこれをマスターしてやるよ、とね。そしてターンテーブルやレコード針がすべて壊れるほど練習した。

『チェイス』にしたのは、いい名前が必要だったからさ。フラッシュがトップで俺は下だった。俺はあいつを追って(chase)彼のいる場所に行きたかった。だからチャーリー・チェイスという名前に決めたんだ」

関連記事:Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)

チャーリー・チェイス、ダウンステアーズでブレイクビーツと出会う

Downstairs Records ad (1978)

「DJの方には、特別割引をご用意しております。国内・輸入ディスコ・レコードのカタログをご用意しておりますので、お気軽にお問い合わせください」
レコード店「ダウンステアーズ・レコード」の広告(1978年)
via. Downstairs Records

「トニー・トーンに連れられて行ったそのレコード店は、ヒップホップのブレイクビーツ専門店で、俺はその存在を知らなかった。ダウンステアーズは、店内全てがブレイクビーツだらけだった」

ヒップホップの歴史書「Break Beats in the Bronx: Rediscovering Hip-hop’s Early Years」より、チャーリー・チェイスのインタビュー。

「あらゆるタイプのブレイクビーツがそこにあった。聞いたこともないブレイクビーツや、曲は知っていてもブレイクビーツだとは認識していなかったもの。ロックンロールのレコードとかね。」

関連記事:ダウンステアーズ・レコードと、ヒップホップ・レジェンド

「給料をもらうたびに、店に行ってはレコードを買っていたよ。家賃のためにいくらかは残しておいて、残りの金すべてレコードに消えた。食べなくても気にならないくらいだった。『ワイルド・マグノリアス』やプレジャーの『レッツダンス』、『ブラック・ベティ』を買った。あの店でブレイクビーツに夢中になったんだ」

The Wild Magnolias With The New Orleans Project – The Wild Magnolias (1974)

The Wild Magnolias With The New Orleans Project – The Wild Magnolias (1974)
via. Discogs

Pleasure – Let's Dance (1976)

Pleasure – Let’s Dance (1976)
via. Discogs

Ram Jam – Black Betty (Ram Jam 1977)

Ram Jam – Black Betty (Ram Jam 1977)
via. Discogs

チャーリー・チェイスに関する記事

The Cold Crush Brothers 1981

コールド・クラッシュ・ブラザーズ(1981年)
via. Joe Conzo

史上初のラップバトルを聴いてみた:コールドクラッシュ VS ファンタスティック [1981年7月3日 ハーレムワールド]

ラップバトル、コールドクラッシュ VS ファンタスティック:1981年7月3日ニューヨーク・ハーレムワールド [ビンテージ・フライヤー]

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Grandmaster Caz(グランドマスター・キャズ)

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