
New Music Seminar DJ Battle (1987)
via. DJ Cash Money
この10年間で、DJバトルは国際的なビジネスとなり、レコードのミキシングとスクラッチの技術は世界中に広まりました。しかし、これは単にバトルが自然進化したというわけではありません。
多くの人の手がこのプロセスに加わったのは間違いありません。しかしその中心的な役割を果たしたのが、ある2人の人物で、彼らが立ち上げたバトルがシーンを大きく変えていくことになったのです。
ヒップホップの歴史書「Groove Music: The Art and Culture of the Hip-Hop D.J. 」より。
トミーボーイ・レコードの創設者トム・シルバーマンは、1980年音楽イベント「ニュー・ミュージック・セミナー」をスタート。翌年アフリカ・バンバータとの出会いをきっかけに開催されたDJのコンペティション(競技会)が「バトル・フォー・ワールド・スプレマシー」です。
同書では、ニュー・ミュージック・セミナーのDJバトルが、ナイトクラブ、T・コネクションで行われていたバトルイベントが起源であると指摘しています。
1980年代、DJバトル・シーンは大きく拡大

「DJバトルのフライヤー」ハーク・チーム(クール・ハーク+ウィズ・キッド)VSコールド・クラッシュ・チーム(チャーリー・チェイス+トニー・トーン)1981年1月9日にエクスタシー・ガレージで開催されたパーティの告知。
via. CUL
1980年代初期から中期にかけて、DJバトルのシーンは大きく拡大しました。「DJだけのバトル」が一般的になり、勝者を決めるのが(観客ではなく)審査員、という形式が多くなっていきました。
Groove Music: The Art and Culture of the Hip-Hop D.J.
バトルもより複雑化していき、複数回のラウンドを経て最終的なチャンピオンが決定されるように。また、企業スポンサーが機材や高価な賞品を提供するようになりました。
このような新たなバトルは、もはや伝説ではなく、オーディオテープやビデオテープに記録されていきます。その後会場から何千マイルも離れた場所に住んでいるファンたちやDJ志望者の耳や目に触れることになるのです。
この10年間で、DJバトルは国際的なビジネスとなり、レコードのミキシングとスクラッチの技術は世界中に広まりました。しかし、これは単にバトルが自然進化したというわけではありません。
多くの人の手がこのプロセスに加わったのは間違いありません。しかしその中心的な役割を果たしたのが、ある2人の人物で、彼らが立ち上げたバトルがシーンを大きく変えていくことになったのです。
それがニュー・ミュージック・セミナーの「バトル・フォー・ワールド・スプレマシー」。そして「DMC・ワールド・チャンピオンシップ」です。
トム・シルバーマン、バンバータと出会う

ニュー・ミュージック・セミナー(NMS)の共同設立者(左から)トム・シルバーマン、マーク・ジョセフソン、ジョエル・ウェバー(1984年)
via. gettyimages
トム・シルバーマンは、コルビー大学で環境科学を専攻し、同校のラジオ局でDJをしていました。1978年、シルバーマンはクラブやラジオのDJを対象としたささやかなニュースレター「ディスコ・ニュース」を創刊。このメディアは後に影響力のある業界誌「ダンス・ミュージック・レポート」になっていきます。
当時シルバーマンはヒップホップに目覚めたばかりでした。マンハッタンの「ダウンステアーズ・レコード」を訪れて、シルバーマンはそこでヒップホップの存在を知ることになります。「ダウンステアーズ」は、ブロンクスのDJ達にとって格好のディギング・スポットでした。そこにはいわゆる「Bボーイルーム」と呼ばれるコーナーがあり、「ブレイク」を含んだ様々なジャンルのレコード・コレクションが販売されていました。

レコード店「ダウンステアーズ・レコード」の広告(1979年)「1929年〜1979年のシングル、10万タイトル以上の在庫あり、カタログは1.25ドルでお送りします」
via. Downstairs Records
関連記事:ダウンステアーズ・レコード 新譜入荷情報:1979年7月21日
シルバーマンはスタッフに、どうやってこれらのレコードを知ったのかと尋ねると、彼らはアフリカ・バンバータという名前を教えてくれました。興味を持ったシルバーマンは、T・コネクションでのバンバータのプレイを見に行くことにしました。
「今まで聞いた音楽の中で最も奇妙なミックスだったが、素晴らしかった」とシルバーマンは後に語っています。(当時トミー・ボーイ・レコードという小さな独立レーベルを運営していた)シルバーマンはバンバータにレコード制作を持ちかけます。
1981年に最初の作品をリリース、それが「ジャジー・センセイション」。そして翌年の「プラネット・ロック」で、彼らは大成功を収めました。

Afrika Bambaataa & Soulsonic Force – Looking For The Perfect Beat (1983)
via. Discogs

Afrika Bambaataa & The Soul Sonic Force – Planet Rock (1982)
via. Discogs
ニュー・ミュージック・セミナー開催

第2回ニュー・ミュージック・セミナー(1981年)で「DJのエキシビジョン」を行う、ディスコDJのジェフ・ブロイトマン(中央)と、スクラッチDJ、ウィズ・キッド(左)
via. Ebet Roberts
(バンバータと出会う1年前の)1980年、シルバーマンは数人のパートナーとともに「ニュー・ミュージック・セミナー」の第1回目を開催しました。
音楽評論家のロバート・クリストゴーは、このイベントを「フレンドリーなレコーディング・スタジオで行われた、マイルドに自由奔放(bohemian)な、1日限りの出来事」と評しました。
ダンス・ミュージックやパンク、ニュー・ウェイヴに関心のある数百人のミュージシャンや業界関係者たちが、この初となるボヘミアンな「事件」に参加しました。
そして翌年、シルバーマンはセミナー初のDJ競技会「バトル・フォー・ワールド・スプレマシー」を開催。
これは偶然ではなく、シルバーマンがT・コネクションで初めてヒップホップDJに出会った後のことでした。
「ニュー・ミュージック・セミナーとかで行われている、DJバトルのコンテストは全部、T・コネクションから始まったものなんだ」とジャジー・ジェイは説明します。
「トム・シルバーマンはT・コネクションからからすべての着想を得たんだ。シルバーマンと彼の妻はクラブで唯一の白人だった。でも皆んなは、敬意(mad juice)を持って彼らと接していた。なぜだかわかるか?彼らはバンバータが招待したゲストだからさ」

「アフリカ・バンバータvsクール・ハーク、ジャジー・ジェイvsウィズ・キッド」
1981年3月13日、T・コネクションで行われたバトル・イベントのフライヤー。
via. CUL
1981年3月、T・コネクションで行われたバンバータとハーク、ジャジー・ジェイとウィズ・キッドのバトルを、シルバーマンが見ていた可能性はあります。いずれにしても、ターンテーブル(wheels of steel)を操るDJたちの圧巻のパフォーマンスが、ニュー・ミュージック・セミナーのバトルの誕生に一役買ったと推測するのも妥当でしょう。
1981年に開催された第1回のバトルでは、DJの参加はわずか3人でした。チャーリー・チェイス、ジャジー・ジェイ、そして勝者はウィズ・キッドでした。

ニュー・ミュージック・セミナーのDJウィズ・キッド(撮影年不明、ネームプレートにNMSのロゴがプリントされています)
via. nostalgiaking
関連記事:Whiz Kid(ウィズ・キッド)
ニュー・ミュージック・セミナー(略してNMS)は年々規模を拡大し、数日間に渡って数千人の参加者を集めるようになっていきます。しかしイベントのハイライトは常に「バトル」でした。

「音楽セミナー」ニューヨークのプライベーツ・クラブで行われたニュー・ミュージック・セミナーの参加者(1981年)
via. Billboard
NMSが与えた影響

ニュー・ミュージック・セミナーで基調講演を行うマルコム・マクラーレン(1982年)
via. Bob Gruen
1982年のセミナーでは(セックス・ピストルズや「バッファロー・ギャルズ」などで知られる)マルコム・マクラーレンが基調講演を行い、主流の音楽業界を激しく非難する一方で、ヒップホップのDJを賞賛しました。「ロックの3つのS(セックス、スタイル、破壊*)を提示するスクラッチDJは、ロックンロールを危険でありながらも商業的に成立させる、魔法のようなものだ」と主張しました。
* ロックの3つのS:sex, style, subversion
やがて大会の舞台が移り、巨大なマリオット・マーキスの中で繰り広げられるバトルのすべてに魔法がありました。
ニュー・ミュージック・セミナー(NMS)は、DJジャジー・ジェフ(1986年)、DJキャッシュ・マネー(1987年)、DJスティーブ・ディー(1990年)、ミックス・マスター・マイク(1992年)など、最も有名で最も尊敬されているヒップホップDJ達を輩出していきました。
* DJバトル優勝者一覧(1981年 – 1994年)
- Whiz Kid (New York City), 1981
- Grandmixer D.ST (New York City), 1982
- Afrika Islam (Los Angeles), 1983
- DJ Cheese (Philadelphia), 1984
- Easy G Rockwell (Original Concept) (New York City), 1985
- DJ Jazzy Jeff (Philadelphia), 1986
- DJ Cash Money (Philadelphia), 1987
- DJ Scratch (New York City), 1988
- DJ Miz (Philadelphia), 1989
- DJ Steve D (New York City), 1990
- DJ Supreme (Washington D.C.), 1991
- Mixmaster Mike (San Francisco), 1992
- DJ 8-Ball (San Francisco), 1993
- DJ Noise (Denmark), 1994
参照:Ego Trip’s Book of Rap Lists
ザ・バトル・フォー・ワールド・スプレマシーは1981年から1994年まで続きました。しかし、その影響はその後も長く続き、ビデオに収められたその驚くべきルーチンの数々を通じて、今もなおDJ達にインスピレーションを与え続けています。
さらにニュー・ミュージック・セミナーは、もうひとつの世界的なバトルを生み出すことにも貢献しています。それが「DMCワールドDJチャンピオンシップ」。四半世紀以上にわたって、ヒップホップDJの発展の中心的存在であり続けています。
DMCの創始者であるトニー・プリンスは、ニュー・ミュージック・セミナーの影響を嬉々として認めています。彼は定期的にセミナーとそのバトルに参加し、海の向こうのイギリスで開催された自分たちの大会には「バトル・フォー・ワールド・スプレマシー」と命名したほどです。
トニー・プリンスは、ニュー・ミュージック・セミナーについてこう語っています。「彼らが種をまき、その種を我々が育ててきたんだ」