Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)

Afrika Bambaataa (1982)

Afrika Bambaataa (1982)
via. Peter Noble/Redferns

「アフリカ・バンバータ」のステージ・ネームで知られるランス・テイラーは、1957年4月17日ニューヨーク州サウスブロンクス出身のDJ、プロデューサー。

ポスト・パンクやエレクトロなど、ブラックミュージック以外の音楽を積極的に取り入れ、1980年代以降のヒップホップに大きな影響を与えたパイオニアのひとりです。

2つのラップグループ「コズミック・フォース」「ソウル・ソニック・フォース」を率い、1980年ポール・ウィンリー・レコードから2枚のシングル「Zulu Nation Throw Down (Cosmic Force)」「Zulu Nation Throw Down (Soul Sonic Force)」でレコードデビュー。

その後インディーズ・レーベル「トミー・ボーイ・レコード」に移籍し、1981年にはアフリカ・バンバータ & ザ・ジャジー・ファイブ名義で「ジャジー・センセーション」を、そして翌年1982年にはソウル・ソニック・フォースと名曲「プラネット・ロック」をリリースします。

「踊れる」ならジャンルを問わない、膨大なレコードコレクション

More of the Monkees (1967)

More of the Monkees (1967)
via. Afrika Bambaataa Vinyl Collection

「メリー・メリー」収録、モンキーズのセカンドアルバム「モア・オブ・ザ・モンキーズ」。コーネル大学に所蔵されたバンバータのレコードコレクションから。

レコードの上から直に貼られたラベルには「ズールーネイション・チームのロックの一撃必殺曲」(Zulu Nation Rock Sure Shot)と書かれ、ライバルのDJたちにアーティスト名が判別困難にしています。

1970年代半ば、ブロンクスのギャング「ブラック・スペード」のリーダーだったアフリカ・バンバータは、友人の死をきっかけに暴力と決別しヴァイナル・ハンターの道へ。音楽の世界へと没頭していきます。

1975年1月、親友のソウルスキーが警察に殺害されたことをきっかけに、バンバータはギャングと関係を完全に断ち切った。その年の後半に高校を卒業すると、母親がサウンドシステムを買ってくれた。

ヒップホップの歴史書「Last Night a DJ Saved My Life: The History of the Disc Jockey」より。

1976年11月12日、バンバータはブロンクスリバー・コミュニティセンターにて、DJとしての初の公式パーティーをスタート。

「(ギャング時代)大勢のヤツらを集めることで困ったことは一度もなかった。だからDJとして活動を初めても、満員の客が集まったのさ」とバンバータはニヤリと笑う。

クール・ハークは大音響で先陣を切り、グランドマスター・フラッシュは技巧に優れていた。一方、アフリカ・バンバータには大量のレコードがあった。

バンバータは「パーティーが盛り上がるか?」以外の基準は一切気にしない、恐るべきヴァイナル・ハンターだった。

ブロンクスのDJたちがファンク、ディスコ、ソウルに固執していたのに対し、バムは人々を踊らせるものなら何でも演奏した。そして、イントロやブレイク、管楽器のスタブなど、ほんの数秒のファンキーなリズムがあれば、どんなレコードでも購入をためらわなかった。

The B-52’s ‎– Mesopotamia (1982)

The B-52’s ‎– Mesopotamia (1982)
via. Discogs

「彼のレコード・コレクションは、信じられないほどすごかった」と、グランド・ウィザード・セオドアは振り返る。「彼がB-52’sの曲をかけると、パーティーの全員が熱狂していたものだ。ローリング・ストーンズやエアロスミス、ディジー・ガレスピーのレコードをかけていた。彼のコレクションには、ジャズのレコードやロックのレコードなんかも普通にあった。」

バンバータの周りに集まった観客達は、彼と同じように「頭が柔らかい」人たちだった。音楽に対して知識を鼻にかける「スノッブ」なヤツがいると、そいつらをいじって楽しんだりしていた。

ぼんやりとしたトラックで激しく踊り、ビートルズやモンキーズの曲で踊っていたことを、嬉しそうに語り合っていた。(バムは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のドラムパートや、モンキーズの「メリー・メリー」から「Mary Mary, Where you going to?」のパートを演奏していた。)

彼のサウンドシステムには、テレビドラマのテーマ曲やCM曲をテープに録音したもの。「スージー・アンド・ザ・バンシーズ」「フライング・リザーズ」「ゲイリー・ニューマン」までもが入っていた。

Siouxsie And The Banshees ‎– Dear Prudence (1983)

Siouxsie And The Banshees ‎– Dear Prudence (1983)
via. Discogs

The Flying Lizards ‎– Money (1979)

The Flying Lizards ‎– Money (1979)
via. Discogs

Gary Numan ‎– Cars (1979)

Gary Numan ‎– Cars (1979)
via. Discogs

関連記事:アフリカ・バンバータは「ロックプール」で、パンク・ロックと出会った

グランドマスター・フラッシュはバムの音楽を思い出し、首を横に振った。バムがかけていた知らない曲が、何のレコードだったのか、特定できたことはほとんどなかったという。

「バムから情報を得ることは、ほぼできなかった。バムが持っているヤツは超ディープで、超パワフルだった。それをどこで手に入れたのかわからなかった」

「膨大の数のレコードだった」とセオドアは語る。「彼がヒップホップに投入したレコードの名前を、全て挙げることなど到底できない」

ビリー・スクワイアの「ビッグ・ビート」や、フォガットの「スロー・ライド」、グランド・ファンク・レイルロードの「インサイド・ルッキング・アウト」などは、バンバータがブロンクスのヒップホップに新たに投入した無名のレコード、忘れ去られたレコード、ありそうで無かった膨大な数のレコードのうちの僅かに過ぎない。

Billy Squier ‎– The Big Beat (1980)

Billy Squier ‎– The Big Beat (1980)
via. Discogs

Foghat ‎– Slow Ride (1975)

Foghat ‎– Slow Ride (1975)
via. Discogs

Grand Funk Railroad ‎– Grand Funk (1969)

Grand Funk Railroad ‎– Grand Funk (1969)
via. Discogs

参照:Afrika Bambaataa hip hop archive, circa 1972-2016 : CUL

自分なりの方法でヒップホップを「発見」したレジェンド

Afrika Bambaataa, DJing at The Venue, London (1982)

Afrika Bambaataa, DJing at The Venue, London (1982)
via. David Corio/Redferns

クール・ハークの「演奏」を聴きに来て、踊って楽しんでいたヤツらのなかには、後にDJになったオールド・スクーラーたちもいた。そのひとりが、バム(バンバータ)だ。

アフリカ・バンバータ率いるズールー・ネイションの重要メンバーで、1970年代のヒップホップ黎明期を良く知るクールDJレッド・アラートは、「Ego Trip’s Book of Rap Lists」の
インタビューで当時のバンバータを回想しています。

バムは自分なりの方法でヒップホップを「発見」した。

学生時代にアフリカ旅行を勝ち取ったことが、大きく影響していて、バムはその旅からカルチャーや何もかもを学んだ。

帰国後、バムは母親にターンテーブルを買ってもらった。そして独自の音楽スタイルを導入し始めた。それはハークのアプローチに似ていたが、よりアフリカ中心主義的なスタイルだった。バムはブロンクス・リバー界隈を拠点にしていた。

バムには女性たちや男たちのファンが何人もいて、彼らを「シャカ・ズールー・クイーン」「シャカ・ズールー・キング」と呼んでいた。

バムは、DJでもMCでも、気に入ったヤツがいればどんどん参加させていた。ある時はDJが3人、MCが10人と一緒のこともあった。みんなは「バム、多すぎるよ!」って言ってたけど、バムは気にしなかった。

それから、バムは「レコード・マスター」だった。彼は誰もがグルーヴを楽しめるような、様々なスタイルを持っていたのさ。

おかしな話だけど、一時期バムとハークは仲が悪かった。ハークがブロンクス・リヴァーで演奏したいと持ちかけてきたが、プラグを抜かれたことを覚えている。

関連記事:絶対に外せない! オールドスクールDJ 16人:DJレッド・アラートが選ぶ

誰よりも「パンク」だったバンバータ

Afrika Bambaataa on stage in London (1980)

Afrika Bambaataa on stage in London (1980)
via. Kerstin Rodgers/Redferns

当時、ギャラリーのイベントでプレイするDJの手配を行なっていたのが、ファブ・5・フレディという人物。バンバータが1980年から、アート界隈のヒップな聴衆たちのパーティでプレイすることができたのも、フレディのおかげでした。

関連記事:Fab Five Freddy(ファブ・ファイブ・フレディー)

そしてそれは(ホルマンやブルーが経営していたナイトクラブ)「ネグリル」や「ロキシー」などで演奏するよりもかなり前のことでした。

ヒップホップの歴史書「Last Night a DJ Saved My Life: The History of the Disc Jockey」より。

ブロンクスのDJの中でもバンバータは、ダウンタウンのクラブ界に最も近いコネクションを持っていました。彼は多くのレコードプールに参加できただけでなく、彼のプレイリストはいくつかのダンス・ミュージック専門の「会報」に掲載されました。

関連記事:アフリカ・バンバータは「ロックプール」で、パンク・ロックと出会った

さらにフレディはバンバータをセント・マークス・プレイスにあった「クラブ57」や「ファン・ギャラリー」、そして奇妙なポストパンクの夜の溜まり場だった「マッドクラブ」などに連れ出し、バンバータはそこでプレイするようになります。

The Mudd Club dance floor, New York (1979)  Allan Tannenbaum

The Mudd Club (White Street in downtown Manhattan) (1979)
via. Allan Tannenbaum

こういったニューウェイブ・シーンでのバンバータは奇抜な服装(呪術医になったPファンクのような)センスにしても音楽の嗜好においても誰にも負けず劣らず派手な存在でした。そしてバンバータも彼らの前でプレイするのが待ち切れない状態でもありました。

実際、髪をモヒカンに刈り上げ、さらに緑とオレンジに染めたのもこの頃。当時のアフリカ・バンバータはニューヨークの誰よりも間違いなくパンク・ロックでした。(そして後にバンバータは、セックス・ピストルのジョン・ライドンと手を組み、シングル「ワールド・デストラクション」をリリースすることになります)

Time Zone – World Destruction (1984)

Time Zone – World Destruction (1984)
via. Discogs

ディスコグラフィ「シングル」

Afrika Bambaataa & The Soul Sonic Force ‎– Planet Rock (1982)

Afrika Bambaataa & The Soul Sonic Force ‎– Planet Rock (1982)
via. Discogs

  • Zulu Nation Throwdown [Winley Records] 1980年
  • Jazzy Sensation [Tommy Boy/Warner Bros. Records] 1981年
  • Planet Rock [Tommy Boy/Warner Bros. Records] 1982年
  • Looking for the Perfect Beat [Tommy Boy/Warner Bros. Records] 1982年
  • Renegades of Funk [Tommy Boy/Warner Bros. Records] 1983年
  • Wildstyle [Celluloid Records] 1983年
  • Unity (with James Brown) [Tommy Boy/Warner Bros. Records] 1984年
  • Frantic Situation (with Shango) [Atlantic Records] 1984年
  • World Destruction (with John Lydon) [Celluloid Records] 1984年
  • Bambaataa’s Theme [Tommy Boy/Warner Bros. Records] 1986年

ディスコグラフィ「アルバム」

Afrika Bambaataa & The Soul Sonic Force ‎– Planet Rock – The Album (1986)

Afrika Bambaataa & The Soul Sonic Force ‎– Planet Rock – The Album (1986)
via. Discogs

  • Death Mix [Paul Winley Records] 1983年
  • Sun City [Manhattan/EMI] 1985年
  • Planet Rock: The Album [Tommy Boy/Warner Bros. Records] 1986年
  • Beware (The Funk Is Everywhere) [Tommy Boy/Warner Bros. Records] 1986年

アフリカ・バンバータに関する記事

Afrika Bambaataa at "Planet Rock" (1982)

Afrika Bambaataa at “Planet Rock” (1982)
via. Tommy Boy

「結局、アフリカ・バンバータって何をしている人なの?」という素朴な疑問に、ヴィレッジ・ヴォイスの回答

アフリカ・バンバータは「ロックプール」で、パンク・ロックと出会った

「プラネット・ロック」ダンスミュージックの歴史を変えた1曲

アフリカ・バンバータ、クラフトワークを語る

「プラネット・ロック」の思い出、アーバン・ラジオとクラフトワーク:クエストラブが語るヒップホップ・クラシックの背景

ダウンステアーズ・レコードと、ヒップホップ・レジェンド

ダウンステアーズ・レコード 新譜入荷情報:1979年7月21日

Run-DMCのデビュー曲を初めて聞いた感想。良いところ、悪いところ

絶対に外せない! オールドスクールDJ 16人:DJレッド・アラートが選ぶ

Fab Five Freddy(ファブ・ファイブ・フレディー)

Kool Herc(クール・ハーク)

Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)

Disco King Mario(ディスコ・キング・マリオ)

RUN-DMCは、何が画期的だったのか?

アーティスト・インデックス

タイトルとURLをコピーしました