
via. DJhistory
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Interview: Afrika Bambaataa : Red Bull Music Academy
ここではアフリカ・バンバータが1980年代前半、最先端のレコードプールからレコードや情報を仕入れていた話や、ブロンクスのクラブでは、黒人とラティーノがパンク・ロッカーと共存していた話など、バンバータがパンク・ロックと出会った経緯を抜粋。
インタビューは、1998年10月6日ニューヨーク、サウスブロンクス、ハンツ・ポイント・コミュニティ・サンターにて、インタビュアーはフランク・ブロートン(Frank Broughton)です。
ダウンタウンのギグと「ロックプール」

The Mudd Club (White Street in downtown Manhattan) (1979)
via. Allan Tannenbaum
(ニューヨーク)ダウンタウンでの「ギグ」で、最初にプレイしたクラブはどこですか?
おそらく「ジェファーソン」と「マッドクラブ」だったと思う。
それは(ファブ・ファイブ・)フレディーの企画ですか?
そう。それと、名前は忘れたけど、当時「ロックプール」の代表だった人物の企画。
ロックプール(ROCKPOOL):1979年創設のレコードプール。レコードプールとは、レコード会社とラジオ/DJの間でレコード・プロモーションの仲介を行う業者。「ロックプール」はおもにロックやニューウェイブを中心に、最先端でエッジの効いた品揃えでサービスを提供していました。1993年に終了。
ファブ・ファイブ・フレディー:本名フレッド・ブラスウェイト、ビジュアルアーティスト、映画監督、ヒップホップのパイオニア。
ストリート・グラフィティからアートの世界へと移行し、初期のラップ・シーンと、ダウンタウンのアートやパンク・ミュージック・シーンの架け橋となった人物。
関連記事:Fab Five Freddy(ファブ・ファイブ・フレディー)

Fab 5 Freddy and Debbie Harry at the Mudd Club (1980)
via. Bobby Grossman
その時の印象は?
いつもと全然違うオーディエンスとのパーティは、どんな感じでしたか?ああ、彼らは独創的でファンキーだったし、いい感じに肩の力が抜けていた。
俺が「オハイオ・プレイヤーズ」や「クール・アンド・ザ・ギャング」、「ジャングル・ブギー」などを、ブレイクビーツとディスコのミックスで演奏すると、彼らはとても気に入ってくれたよ。
それから俺は「ロックプール」に夢中になって、パンク・ロックのレコードをたくさん聴くようになってからは、さらに「彼ら向け」の曲をプレイするようになった。「ザ・フライング・リザーズ」や、その他のパンク・ロックの曲を演奏し始めたんだ。
「ジェファーソンに出演してくれないか」「マッドクラブに来てほしい」「ダンステリアでプレイしてくれない?」「〇〇に出演よろしく」等々
俺に「フォロワー」が増え始めたのは、その頃からだ。
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黒人と白人は、ちゃんと列に並んだ

The Palladium (1985)
via. Matt Weber
「ジェファーソン」はどこの場所にありましたか?
「パレイディアム」の下、古くて大きな映画館だった建物だ。上の階ではロマンチックなパーティーをやっていた、下ではアダム・アントみたいな海賊の格好をしている時に。他にも吸血鬼のような時もあった。確かに奇妙な光景だったよ。
でもしばらくすると慣れてきたのか変化が現れ始めた。ヤツらは俺たちの場所に来るようになったのさ、超おもしろくてヤバかったよ。特に、マスコミを黙らせた時はね。
マスコミは「人種間の争いが起きる」みたいなことを言っていたが、全部ウソ。俺らはただ、パーティーをしたり、酔いつぶれたり、写真を撮ったり、まったりしているだけだった。黒人と白人は、ちゃんと列に並んで入場を待っていたしね。
それに俺たちはパンク・ロッカーたちも歓迎した。ヤツらも含め、人々と音楽のためにパーティーをするのは、最もフェアなことじゃないか。
ジョージ・クリントンおじさんが、よく言っていたよ。「グルーヴの下、国はひとつ」
ブロンクスのパンク・ロッカー

Hip Hop Party at 3510 White Plains Rd, Bronx, NY (1981)
via. CUL
俺たちが(ニューヨークの)ダウンタウンで演奏を始めて、1970年代後半から80年代前半になると、白人のパンク・ロッカーたちが音楽を聴きに、黒人やラティーノのエリアに来るようになった。
ヤツらは、ブロンクスにも来るようになった。最初はみんな怖がっていたよ。メディアは「人種間で暴力抗争が起きるだろう」と言っていた。でも、それがクソみたいな大ウソだいうことを、俺たちは証明して見せたのさ。
第一印象は「うざい」ってなってたよ、みんな。黒人やラティーノたちは、パンク・ロッカーを見て「イカれたのが来た」って鬱陶しい感じになっていた。
スパイク(コーンスタッズ)に、あの髪型、軍旗などすべて、ずいぶん変わった服装だ。
しかしヤツら音楽がヒットすると、みんな自分のケツをひっぱたくことになる(自分は間違っていた)って気づくのさ。
それから、黒人とラティーノたちは、パンク・ロッカーたちがやっていたダンスを発展させ、それが「パンク・ロック」と呼ばれるダンスになっていった。
パンク・ロッカーは黒人のダンスを習い、黒人やラティーノはパンク・ロックのダンスを習った。パーティーは超盛り上がっていたよ。
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さらに俺たちは(他のクラブ)「ネグリル」や「ダンステリア」にも進出していった。
そして「ロキシー」が世界に知られるようなクラブになると、パンク・ロックとヒップ・ホップが爆発的なブームになっていったのさ。

Afrika Bambaataa at the Roxy Club in NYC (early 1980s)
via.Eric Kroll